翌日の午前中は軍刀のお披露目と言うことで武器を使用した組み手になった。

 元の世界にいたときは両刃の剣を好んで使っていたので、片刃の剣は最初の数合はみねで斬りかかっていたが、すぐに遺志ある剣『セルセ』が流れを教えてくれたので剣筋を修正することができた。それと、両刃の剣には無い利点として、刃の向きを片方だけ注意しておけば体術との組み合わせが非常に楽にできるというところがあった。体術ととても連携が容易いということは、それだけ攻撃の幅が広がると言うことであり、機械鎧の手甲を刃に錬成して豊かなバリエーションで戦うエドのスタイルに酷似して。万が一機械鎧を壊してしまったらウィンリィに殴られるという考えにより、お互いの武器を魔術の膜で覆っての対戦となっていた。ただ、斬れない程度にとどめているため殴られればこぶができる程度には痛かった。


 エドにしてみれば実戦的ではないが体術でも剣技でも一歩及ばない実力差に歯噛みして、刃を交えたまま苦々しく言う。
「ったく、本当に何でもできる奴っているんだな……!」
 左足の回し蹴りを棒術のように軍刀の峰で受け流され、叩き折ることも出来ずに一歩引く。
「元居たところじゃ命張ってたからな、必要なら何でも覚えたんだよ。誰だって死にたくは無い……!」
 低い体勢から打ち上げ、乱切りの如く左右に刃を振り下ろす。
「ガキのころはそんなことは思ってねーだろ?」
 手刀の根元で刃を受け止め足払いをかけるが、同じように軸足を狙ってきたため弾かれ、さらに咬ませた合わせ目からそのまま強引に押し出されて間合いが生まれた。
「たまたま魔術の素養があると養母が見抜いて、ギルドと風霊神殿に通い始めてからだ。世界は、人はいつでも生きていくのに必死だってな!」
「それで……傭兵になったのかよ?」
「国にも組織にも拘束されずに……家族と目の前の誰かの助けになるって、思ったからさ」
「根本からしておせっかいだ、マジで」

「はっは、嫌なら強くなれ。ちなみに魔術と言う隠し玉が無くても――――」
 突然、から途方も無い殺気があふれ、エドに向かう。

「……っ!」
 一瞬、傷の男と対峙したときと同じ感覚が全身を襲う。集中していた意識が霧散してしまい、ひときわ踏み込みの音が大きく聞こえたと同時に両肩と額に痛みが走る。

「こんな芸当もできたりする」
 剣筋が見えない速度で急所を斬りつけたのだとエドが理解したときには、は自分の後方に移動していた。
「な……なんだよ、今の」
「死角を突いた三段攻撃」
 あっさりと殺気を消してが答える。その落差にエドはかすかに慄きを覚えるが、手の内が知りたくて急かすように言った。
「じゃなくて、何にも見えなかった」
「だから、死角を突いたんだってば。人の視覚なんていい加減だからさ、見えるはずのものも見えなくなるんだなこれが」
 物事の流れは常に一定かつ安定しているわけではなく、かすかに空白がある。視聴覚にも当然それはあって、脳が世界を視認する間の間隙を利用した攻撃だった。
「……理屈は判るが実践できるか普通……」
「結構練習したよ、それでも百パーセント成功するわけじゃないし」
「……それ、教えてくれないか」
 快諾してくれるという思惑を外れ、は困り顔で応えた。
「エドのスタイルだとその刃だからなぁ、突きになると……殺人剣になるが?」
だってそうだろ、今は斬れない様に」
「今のはみね打ちだし。それにエドは誰かを殺せる気概があるのか?」
 斬りかかって来る直前にぶつけられた意志を見せることは出来るか、と暗に問われて。
「……必要なら。それに、使い方次第だろ」
「じゃあ――防護の膜は解いた。この場で私を斬ってみろ」
「なんでそうなるんだよ!?」
「必要だと今言った言葉は嘘かな? 使い方次第、というのは修めてから応用できるものだと思うがね」
「――――」
「ちょ、なに言ってんの! そんな、やめてよ!」
 アルの制止に軽く首を振っては言う。
「……改めて訊こう。なぜ、覚えたい?」
「襲われたとき、死にたく無いからだ」
「……傷の男か」
「ああ」
「ならば斬れ」
「お前を斬ることが必要なのかよ!」
「そうだ。――――さあ」

 そしては口を閉ざし無手になり、目を閉じる。

 エドの逡巡は一瞬。怒号と共に駆け寄り、腕を上げる――――

「やめてってば――――!!」

 アルの絶叫が耳に届いて――――


「…………斬れなければ、己が斬られる。命を奪うときに躊躇うな……!」

 寸止めの刃のすぐそばで、の苦渋の表情が見えた。

「――できねぇ、よ」
 絞り出すような掠れ声で言い返すのが精一杯で、エドは動けずにいた。

 興醒めの表情ではやさしくエドの腕を下ろし、すれ違いざまに告げた。
「――――そのままでは、いつか殺されるか、決め所で取り返しがつかなくなる」



 屋上のドアの音が空虚に響いても、動くことが出来なかった。
 ただ、すれ違うときに嗅いだ花のような残り香だけが傍らに残った。






「勤務中にのんびりお茶が出来るって贅沢ね……」
「この焼き菓子うまいっすね。しょっぱいのがいいっす」
「『センベイ』という極東のお菓子ですって……あんまり食べるとお昼、入らなくなるわよ」
 豪快で小気味良い音を立てながら海苔煎餅を噛み砕くブロッシュは頷き、緑茶で喉を潤せば腹もくちくなる。満足気に息を吐くと思い出したように言った。
「エドワードさんたち、まだ組み手してるんですかねえ」
「じきに降りてくるわよ」

 マリアが呑気に答えたそのとき、けたたましい足音が廊下に響いた。

「ほら…………って一人分?」

 一つの足音はすぐにマリアたちの居るここ、エドとアルが使う部屋のそばまで来るが、開かれたドアはここではなく、壁越しにやや乱暴に開閉すると、すぐに静かになった。

「……」
「……」

 顔を見合わせ、口に残っていた菓子をお茶で流し込んでから、席を立った。

? 戻ったならお茶を用意したからいらっしゃい」
 ドアをノックしながらマリアが声をかけると、要らない、とドアは開かずに強い口調で返ってきた。

「……」
「……」

 ふたたび顔を見合わせていると、エドとアルが戻ってきた。
 ただし、兄弟の表情は暗く、足取りも重く、暗雲を背負って。

「……」
「……」

 声をかけることが出来ないマリアとブロッシュをスルーして静かに部屋に戻る。


 三度目に顔を見合わせたとき、軽く頷きあった。




 鍵はかかっておらず、マリアはゆっくりとドアを開けて中に入る。
「入るわよ」
「あー」
 ぶっきらぼうに返答したソファに足を投げ出すの横に座り、天井を眺める横顔を見て言った。
「張り切って出て行ったと思ったら、みんなして暗い顔で戻ってくるなんて……なにがあったの?」
「ん……あのさあ、マリアは人を殺したことはあるか?」
「無いわ」
「そうしなきゃいけない局面があったら?」
「そのときは殺すわ」
「だよなぁ……」
 意図は読めないままだったが即答すると、盛大に溜息をついてからは言った。
「……エドがさ、人を殺すかもしれない技を覚えたいって言うから、人を殺す気概はあるのか試したら出来なくって」
「どんなものなの?」
「死角を利用して両肩と頭部を叩く棒術。長いリーチがあってこそ効果があるんだけど、エドは錬金術で手刀を使うから、相手をきっと突き殺してしまう」
「そうね、の使い方だと峰で済むけど……エドワードさんでその使い方は難しいわね」
「だからこの場で私を斬れって、言った。でもあいつは出来ないって」
「それは……」
「情に流されて殺されるか、殺さないかは本人の自由だよ? でも、死んで欲しくないと思ったから」
 矛盾した言葉だが、その意図はマリアにも汲み取ることが出来た。
「あなたの居たところは、誰かを殺したりすることが日常的なのかしら」
「いや? 魔術師だって殺人は罪だけど……傭兵や騎士は別さ」
「あなた、傭兵だったの?」
「フリーのね……って言ってないっけ?」
「聞いてないわ。記憶は見せてもらったけど」
「……」

「けっこう抜けてるのね」
 反論できずに、ただ煙を吐き出す。
「エドワードさんにちゃんと説明したほうがいいわ。ね?」
「…………うん」

 答えて煙草を消し、立ち上がる。




「なにかっつーと偉そうなんだよあいつは」
「女性は精神的に早熟に出来てるっすからねえ」
「軍服みたいな服着てるし」
「エドワードさんと一緒に行動するから、違和感が無いようにしたと思うっす」
「強いし」
「そうっすねー」

「…………何が言いたいんだよ」
 ソファに胡坐をかき、背を丸めたエドは顔だけ上げて対座するブロッシュに訊いた。


って物事をはっきりいうタイプじゃないすか、口調はきついけど」
「……まぁな」
「自分は経緯は分かりませんが、に何を言われたんすか?」

「……人を殺す気概があるのかって」

「うーん」
 腕組してうなだれるブロッシュ。アルが顔を覗き込むまで黙していたが、ゆっくりと顔を上げて言った。
「――自分は軍人ですから、戦争や必要に迫られたら、そうすると思います。多分」
「……」
「でも戦争になればエドワードさんだって軍属ですから」
「ああ。そういう契約だ」
「目的のために、誰かを守るために、誰かを殺すかもしれない――でも自分で決めたことっす」

 ――――例えば、子を生かすために鬼になる母のように。

「…………」

「今すぐ気合入れる必要が無いってことは、人を殺すことを覚えるときじゃないってことっす。考えすぎることは無いっすよ」

 反論がカタチになる前に、ドアが開けられ、マリアとがやってきた。

「あら、男同士で何の話?」
「えっと、その」
「男同士の話っすから、内緒ですよ」
 ブロッシュの言葉をそれ以上追求しないマリアは、ドアを閉めても前に出てこないの背中をそっと押した。対座していたブロッシュが横に移動したので、エドと向き合う形になり、一瞬口を開くが、すぐにつぐんで、わずかな時間だったが、指先を弄んで。空虚に動いていた指先を握り締め、顔を上げた。


「……さっきはごめんなさい。言い過ぎた」
 許しを乞うような声音は無く、ただ普通に謝罪を口にされて、エドは視線を逸らしたままで口を開いた。
「……いや、オレも……図星で……腹が立っただけだから」
「うん」
「傷の男も、勝ちたいとは思うけど、殺し合いはしたくない」
「うん」
「……誰かを殺すとか、考えられねえし」
「ああ、出来れば……エドはそのままでいて欲しい。必要とあれば、私がその役を負う」
「なんでそうなるんだよ……」
「同行していればいずれまた傷の男とあいまみえるだろう? その時に同行者を見逃すとは考えにくいし、何よりエドが殺されてしまうなんて冗談じゃない」
「そんなの駄目だ!!」
 立ち上がってエドは叫んだが、
「黙って殺されるのを見ていろと?」
「殺されるって決めつけんなよ……!!」
 歯軋りをしてを睨みつけるエド。その傍らのアルはたまらず口を挟んだ。
「ねえ、勝てなくても逃げれば何とかなるんじゃないかな?」

「逃げ切れないときは?」


 裏路地での逃亡、破壊された外壁、塞がれた退路。そして――――


 次は、と考えると明確な対抗手段が無い現実に兄弟は言葉に詰まってしまった。


「私だって殺人は出来るだけ避けるようにする。だが、誰かを守るために……生き残るために必要になれば、そうする」

 ブロッシュと同じ言葉を口にするに、エドは意を決した。
「オレが負けなきゃ、殺すことは無いな」
「もちろん」
「……じゃ、約束しろ」
「我が名に誓って」
「守れよ」
「お互いにな?」

 頷きあう二人を見て、話は終わったと理解したマリアが長い溜息をつき、つぶやく。

「…………仲直りしたのか悪化したのか分からないわ……」

 そんな彼女を見てエドとは口々に返した。
「一応、仲直りはしたと思うが」
「約束したし」


 友情は芽生えたが愛情は薄く。
 残った三人は一様に肩を落としうなだれていたが、顔を上げたときは苦笑を浮かべていた。







 就寝前に一人でお茶を飲んでいると、ノックと共にエドの声がした。
「……よう」
「どうした?」
 室内に招き入れたエドは、逡巡し部屋を眺めていたが、真っ直ぐにを見て言う。
「昼間の続き、いいかな」
「…………どうぞ」
 ソファにエドが座ると、紅茶を入れなおしたは身体をお互いに向けるかたちで並列に座った。出された紅茶のカップを手にすると、カモミールのフレーバーが言葉を引き出してくれて、赤い液体の表面に目を落としたまま口を開く。
「――は、人を殺したことはあるのか?」
「半殺しは多いが、人は無いな。」
「人、は?」
「傭兵やってたから、魔物は沢山殺した」
「……どうやって」
「魔術が主体だが、剣で直接もある。護衛対象を守るために人に近い存在でも何でも、必要ならそうしてきた」
「…………」
「食べるための事以外でしないほうが良いにきまってる。だからエドはそのままで、いてほしい」
「結局、同じじゃないのか?」
「違うよ。命はいのちをたべないと生きられないが、食べるわけでもないのに屠るんだ」

 めぐり、まわり、うまれ、かえる。

「それでも……に人殺しをして欲しくない」
「だったら、強くなれ」
「だから、教えて欲しい」
「……」

 真っ直ぐな意志を湛える金色の眼差し、虹彩が室内の照明にかすかに揺らぐ。背負えるはずの無い荷物を今も抱えているくせに、まだ足りないのか。それでも共に往くと決めたのは自分で、受け入れてくれたのも事実で。

「――――習得するまで、刃をつけていないとき、もしくは棒を振るうときだけに使うと約束してくれるか?」
「……わかった」
「じゃ、明日」
「いま、教えてくれ」
 言ってエドは床から木刀を錬成する。有限実行の姿に、は微笑んで立ち上がり、結界を張った。



「……踏み込みが甘い」
「最小の動作で最大の威力を出すのが基本」
「死角を突けるようになるのはその後」


「脇があいてる! 足捌きだけに頼るな!」
「床をブチ抜くつもりで踏め!」


「変な溜めは要らないすぐ動けすぐ!」

「ワンアクション前の溜めが癖になってる! 直せ!」






「――格好だけはつくようになったな」
「……っあー」
 三時間後、汗だくのエドは床に仰向けになり必死に酸素を肺に取り入れていた。疲労困憊の姿に、は水霊ワイズに頼んで氷を作り、細かい氷いっぱいのアイスティーをローテーブルに置いた。
「今日から最低一時間は今の動作を一つの型として繰り返せ。そのうち意識しないで動ける」
「……おう」
 深呼吸を一つ吐いて、エドはソファに這いずるように移動し、アイスティーをすすった。
「これ、どのぐらい続けてたんだよ」
「二年とちょっと」
「――――」
 美味しいアイスティーを噴出させるのをどうにかこらえたが、無理やり飲み下したせいで喉に絡んだため言葉が出ずに咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「っげふ……な、なんとか」
 背中をさすってもらううちに、息が楽になったので肩で大きく息を吸い、吐き出してから口を開いた。
「毎日一時間も?」
「うん。二週間経たないうちに飽きてくる。でも一ヶ月すると、やらないと気持ち悪くなる」
「うへ」
「一つの型を極めると、それが糧となり、土台となり、自分を支えてくれるんだ」
 拠り所を自らにつくると、困難な状況にも突破口を見出しやすい、と指導中は手にしていなかった煙草に火を吐けた。
「私との手合わせで、タイミングにずれがあると感じる?」
「……ああ、なんかうまく捕まえられねえ」
「ある程度は型に沿った演舞のように、攻撃パターンがある。最初をパターンAで、相手が流れに乗らなければパターンBやCに、たまに一手をCにしてAからBへと変化させる」
「なるほどな」
 アルとの組み手が舞踏のように美しいと感じた理由が言葉になり、エドは深く頷く。
「エドも大体はできているが……いかんせん、手数はまだまだ少ない」
「はっきり言うな」
「そのための型の修練だろ? 自らを認め、実力を知らなければ強くはなれない。エドは認めたんだ。大丈夫さ」

 真っ直ぐにエドを見つめ――笑顔を向けた。純粋な好意にエドは照れ隠しに苦笑して、アイスティーを飲み干す。
「悪りぃな、遅くまで付き合せて」
「いや、こういうことならいつでも言ってくれ」

 立ち上がってドアの前で、背を向けたまま、つぶやく。
「いつか……すげぇって言わせてみる、から」

「ん?」

「なんでもね、んじゃ、おやすみー!」
「おう、お休み」











 次の日の朝、ルームサービスのB&Bの朝食に飽き始めていたが自炊を検討していると、ボーイがエドにメッセージ・カードを持ってきた。バターたっぷりのトーストを頬張りながら何気なくカードに目を落とす。
「んお! ぶぶじゃべぐあっへ」

「全然分からん」
 言いながらコーヒーを差し出す。受け取ると勢い良く喉に流し込むので、熱いコーヒーが食道を大量に降りて行って。結果としてエドは一人悶え苦しみだした。空を掴もうとする手からカードがテーブルに落ちて、苦笑を浮かべるは拾い上げたカードの文面を読み上げた。
「ああ、シェスカからだ。複写できました。宜しければ今日中にお越しください。だってさ」
「ホント? やったね兄さん!」
 歓喜の声を兄に向けるが、当の兄はいまだ喉をかきむしり、口腔で熱いコーヒーを吸い込んだ炭水化物の残りと格闘していた。
「うーん。根性で吐き出すのをこらえてるんすね」
「食べ物を大事にするのはいいことだわ」
「じゃ、食べたら行こうか」
「そうね」
「…………」
 誰もエドに水を差し出さないので、アルは複雑な心境で兄にお冷を差し出した。一気に飲み干すと、お冷に残っていた小さな氷が食道でやわやわと押し下げられて。胸部に重い息苦しさがやってきた。アルは慣れた手つきで背中をさすった。
「慌てて食べなくても……でも、大丈夫?」
「あ――」
 朝から盛大に体力と気力を消費してしまったエドは力なく答え、息苦しさで目尻に溜まっていた涙をナプキンで拭った。










「いやぁ、すみません。かなりの量だったもので写すのに五日もかかってしまいました」
 相変わらず本が主人のこの家で、別室はいくらか片付けられており、テーブルの上の広いスペースに頑丈なクリップで綴じられた研究書はA4の束というかやはり山で。シェスカは最後の一山をその上に重ねて笑顔で言った。
「ティム・マルコー氏の研究書の複写です」

「……本当にやった……」
「世の中にはスゲエ人が居るもんだなぁ、アル……」

 エドとアルが口々に驚愕を言葉にする後ろで、マリアもブロッシュも驚きのあまり声が出せずに居た。も感心してはいるが、手近な本の山に興味津々で、手にとって眺めたりしていた。

「うわぁ……そうか、こんなに量があったんじゃ、これ持って逃亡は無理だったんだね、マルコーさん」
 アルが何気ない感想を口にしたとき、の意識が一気に傾注したが、その変化は誰にも気付かれることはなく、エドはこみ上げる嬉しさを隠しきれずにシェスカに尋ねる。
「これ本当にマルコーさんの?」
 得意満面でシェスカがタイトルを口にする。
「はい! まちがいなく、ティム・マルコー著の料理研究書「今日の献立一〇〇〇種ですっ!!」


 は?

 笑顔のまま、一行は凍りついた。




「砂糖大さじ一に水少々を加え……本当に今日の献立一〇〇〇種だわ……」
「たしかに、文字だけ追えば普通に料理できるな」
 手にした文面を読み上げてマリアは愕然とし、の率直な感想にブロッシュはシェスカに詰め寄る。
「君! これのどこが重要書類なんだね!!」
「重……!? そんな! 私は読んだまま、覚えたまま写しただけですよ!?」
 心外というシェスカの態度には虚偽が見当たらず、ブロッシュは短く嘆息して、研究書に目を通す兄弟に言う。
「という事は、同姓同名の人が書いた全く別の物!? お二方、これはムダ足だったのでは?」
 ブロッシュの言葉にエドはあると頷きあってからシェスカに言った。
「これ本当に、マルコーさんの書いたもの一字一句、まちがい無いんだな?」
「はいっ! まちがいありません」
 力強い言葉にエドは不敵に笑った。
「あんたすげーよ。ありがとな」
 そして、書類の束を手にしてエドは言う。
「よし! アル、これ持って中央図書館に戻ろう!」
「うん。あそこなら辞書が揃ってるしね」
 一番多く研究書を持つアルは先にシェスカに礼を言って、ブロッシュにドアを開けてもらい部屋を出ていき、踵を返しかけたエドはあわてて言った。
「――っと、お礼お礼」
 胸ポケットから手帳を取り出し、
「ロス少尉! これオレの登録コードと署名と身分証明の銀時計!」
 書き込んだページを切り取って銀時計と一緒にマリアに渡す。
「大総統府の国家錬金術師機関に行って、オレの研究費からそこに書いてある金額引き出して、シェスカに渡してあげて」
 銀行を使うにはエド本人が手続きする必要があるが、軍人であるマリアなら国家錬金術師機関で研究費を引き出すことが出来た。無論、エドの登録コードと本人の署名、身分証明の銀時計は必要になる。
「はぁ……」
 複写のお礼を品物ではなく現金にするあたりは子供故か、と思うマリアに対し、ドアを開け、体の半分を表に出しながらエドは手を振って言った。
「シェスカ、本当にありがとな。じゃ!」
 ブロッシュと共に残りの研究書を脇に抱えたがエドの後を追ってドアを閉めた。
「ふぅん、研究費用から……」
 何気なくつぶやき、シェスカと二人で文字に目を落とし、目を丸くした。

「キャ――――!! なんですかこの金額!!」
「こんな金ポンと出すなんてなんなのあの子!!」

 二人の絶叫はブロッシュをたじろがせ、一週間ほどご近所の噂の種になった。







 ブロッシュの運転で中央図書館へ向かう道すがら、エドとアルはもとより、も研究書を読みふけっていた。錬金術師ではないといっていたが、真剣に読む姿をバックミラーから見えていたブロッシュはに問いかけた。
もこういうの分かるのかな」
「いや? 普通に料理本としてみてるだけだよ。外食に飽きたから今日にでも作ってみようかと思って――食材で好き嫌いはあるかな?」
「ぬるぬるしたものは嫌いだなぁ……って、料理するんだ?」
、料理上手だよ。ウィンリィもピナコばっちゃんも喜んでた」
「ああ、お二方の故郷の方っすね」
「エドは……聞いてないか。刺激が強くなければ平気だったな。――と、マーケットは何時まで営業してるのか分かるか?」
「えーと、ホテルのある通りの裏に、割と遅くまで空いてる所があると思ったけど、時間分かんないや」
「そうか、じゃ、帰りに見に行ってみよう」



 図書館に到着した一行はすぐに軍属の特権で普段は使用されない二階の奥にある会議室を貸し切りにして、辞書を思いつく限りの種類で集めた。
「これだけあれば大丈夫だろ」
「そうだね、足りなかったらまた借りてくればいいし」
 ほとんど訳がわからないまま手伝っていたブロッシュが疑問を口にした。
「あの……本当にこれが、錬金術の研究書なんですか?」
「仮にシェスカが嘘をついていたら、すぐにバレちまう。国家錬金術師に対して一般人がそんなことをするメリットはないだろ」
「まあ、普通はそうですけど」
 含みのある態度に、アルが確信を持って答えた。
「それに、本物ですよ」
「どうしてそう思う?」
 の問いかけに、エドは辞書を置いてから答える。
「錬金術師は研究で得た成果を、分け隔てなく与えることをモットーとしてるけど、その一方で一般人にそのノウハウを簡単に入手できないようにする必要がある。武器や爆弾の錬成方法がすぐ分かったらやばいだろ?」
「まあな」
「ああ、無造作に技術をばらまいて悪用されては困りますね」
「そういう事。――で、どうやってそれを防ぐかってーと……練金研究書の暗号化だ。一見、変哲もない料理研究書に見えても――――その中身は書いた本人しか判らない様々な寓意や、比喩表現で書き連ねられた高度な錬金術書って訳さ!」
「へえ、面白いな」
「書いた本人しか判らないって……そんなのどうやって解読するんですか?」
「知識とひらめきとあとはひたすら根気の作業だな」
「うへぇ……気が遠くなりそうです」
「料理研究書に似せてある分、解読しやすいと思いますよ。錬金術は台所から発生したという言う人もいるくらいですから。でも、兄さんの研究書は旅行記風に書いてあるからボクが読んでもさっぱりですけど」
「そうか?」
「ふむふむ、そのうち見せてくれないかな」
「え、なんかヤダ」
「気が向いたらで良いよ」
「……わかった。じゃ、さくさく解読して真実とやらを拝ませてもらおうか!」
「お――!」





 ――――しかし、解読作業に入って熟語の一つも解読できずに一週間が過ぎ去った。




「なんなんだ……このクソ難解な暗号は……」

 エドが知るいかなる方式にも当て嵌まらず、成功したように見えた言葉は意味不明になった。初心に帰り置換式を使用してみたが、やはり解読は出来なかった。ホテルに戻れば、が覚えたこの研究書にある料理が作られていて。しかも美味しいので文句も言えなかった。

「兄さん……これ、マルコーさんに直接訊いた方が早いんじゃ……」
「いや! これしきの暗号も解読できぬ者に真実を知る資格なしってマルコーさんの挑戦と見た! なんとしても自力で解く! ――――でもさっぱりわかんねー」
 目の幅涙を流して鶏肉のオレンジソースがけのレシピを眺める。オレンジジュースを混ぜる前にゼラチンの粗熱をとる――――取りたいのは真実で、空腹を満たすものではなく。ちょっとおいしそうだなーとかは思っても。
 文字を斜めに読んでいるところへ、足音と声が聞こえた。
「あの……」
 アルが気付いて声をかける。
「シェスカ……」
 シェスカは軽く頭を下げ、テーブルの傍まで寄って言った。
「お二人ともここにいらっしゃると聞いたもので……」
 再び、頭を垂れてから続ける。
「エドワードさんのおかげで母を立派な病院に移すことができました! 本当になんてお礼を言ってよいのか……」
「ああ、いいっていいって」
「ああっ、それにしてもあんなに沢山いただいてよかったのかしら」
「気にしないでいいよ。この資料の価値を考えたらあれでも安いくらいだし」
「……そうなんですか?」
「じつは、錬金術の研究内容が暗号化されて入っているんです」
「……はぁ、この研究書にはそんなに重大な秘密が隠されていたんですか……。それで、解読は進んでいるんですか?」

「――」
「――」

「君は仕事見つかった?」

「――――」


 気まずく重い沈黙だけが室内を支配した――――







 一〇〇〇種の献立があると材料もバラエティに富んでいて、の知らないこの世界独自の食材が使われていた。料理研究家が残した書籍をいくつか手にして、エドたちの居る会議室へと歩いていると、軍服に身を包むヒューズが階段を上がってくるのが見えた。
「よう、元気か?」
「私はね」
 並んで廊下を歩き、結界を張ってから言葉を投げた。
「賢者の石の研究……国家では行ってはいないのか?」
「するわけねえって。何でもできる夢のアイテムを生み出すよりも先に、内紛を片付けるのが先だよ」
「――この図書館で錬金術に関するいくつかの蔵書を読んだが、賢者の石を語る項は殆ど無かった」
「そりゃそうだ。伝説の、夢の話だ」
「ならば何故エドもアルも執拗に、実在すると追い求めることができる?」
「…………」
「存在していた事実があるからだろう」
「……俺は、見たことはねえけどよ、この国には、歴史上、何度か出現したって記録が……確かにある。ただ、出現は唐突で、背後関係を洗おうにも――手にしていた人物が実在していた事実が無い」
「石が在るとわかるのに、所有者の実在が確認できない? なんだそれ?」
「ちゃんと調べたわけじゃねえけど、出自が不明なんだ。錬金術の歴史は古いから、著名な人物が手にしていたって逸話もあるが、そいつ自身の経歴が記録に無い」
「…………おかしな話だ。結果として、賢者の石だけが事実として明確に残ってるって事か」
 剣呑な光を瞳に宿し、小さく笑いを浮かべるに、ヒューズは苦笑した。
「まあ、考えすぎるなって。石ができるかできねえかは、その時に考えようぜ」
 小さく頷いて、は結界を解いた。

 
「じゃ、わたしそろそろ。本当にありがとうございました」
 三度シェスカが頭を下げて辞そうとするので、エドはストレートに返す。
「ああ、金のことはもういいって」
「いえ、お金のこともそうですけど……本にのめりこむ事しかできないダメ人間な私が、人の役に立てたのが嬉しかったんです。ありがとう」
「ダメ人間じゃないよ」
 苦笑するシェスカに、アルは力強く告げた。
「え……」
「何かに一生懸命になれるって事はそれ自体が才能だと思うし、それにすごい記憶力あるし、自身持っていいよ」
 ね、と鎧の面は笑ってはいなかったが、笑いかけられた事は確かで。
「ありがとう!」
 シェスカが満面の笑みを浮かべたとき、会議室の大きな両開きの扉が開いて、ヒューズとがやってきた。その奥でマリアとブロッシュが上司の登場に恐縮しながら敬礼をしているのが小さく見え、軍人は体育会系だとを感心させていた。
「よっ」
「ヒューズ中佐!」
 エドが意外な表情で訪問者に声をかける。
「少佐に聞いたぞ、何だよお前ら中央に着たら声かけろって言ったのによー」
「あ、いやぁ、急ぎの用があってさー」
 ばつが悪そうに頭をかいてエドが釈明を口にする。
「そっか、まあ俺も忙しくて持ち場を離れられなかったんだけどよ」
 手近に空いていた椅子に座り込んで、凝り固まっている首を鳴らしながら唸るように言った。
「最近、事件やら何やら多くてなぁ、俺の居る軍法会議所もてんてこ舞いだ。タッカーの合成獣事件もまだ片付いてないし……」
 愚痴を言い切らないうちに我に返るが、エドの表情は既に曇っていて、ヒューズはすぐに謝罪を口にした。
「――っと、すまねえ。嫌な事思い出させちまった」
 アルも幼い少女の面影を追っていたが、ヒューズの気持ちを考えて素直に訊いた。
「仕事が忙しい中を、わざわざ会いに来てくれたんですか?」
「いや、息抜きついでだ気にすんな。すぐ持ち場に戻るさ。――ったく、ただでさえ忙しいところに第一分館も丸焼けになっちまってやってらんねーよ」
「第一分館?」
 数日前に、絶望を象徴していた黒焦げの焼け跡が兄弟の脳裏によみがえる。
「ああ。軍法会議所に近いってんで、あそこの書庫にゃあ過去の事件の記録やら名簿やら保管してたからよ、業務に差し支えて大変だよ」

「へ――――……」

 退出のチャンスを逃して棒立ちするシェスカを、兄弟は下から上まで凝視し、が後押しした。

「成程、そういう事態なら、彼女の記憶力が非常に有効だろうな」
「へ?」
 話が見えないヒューズに、更に言う。
「もと第一分館勤務のシェスカ。彼女の特技は一度読んだ本の内容は忘れないこと、だそうだ。彼女から情報を引き出せば良いんじゃないか?」
 唐突に話を振られ、シェスカは周囲を見回し、注目が集められていることを理解すると、途端に声を上げる。

「え――――!? た、確かに軍の刑事記録も読んで覚えてますけど……」
 困惑仕切りのシェスカを示し、エドはヒューズに言う。
「どうだろ中佐。この人働き口探してるんだけど」
「え、マジでそんなすごい特技持ってんのか!? そりゃ助かる!」
 勢い良く立ち上がり、小柄なシェスカの上着の襟を掴んでヒューズは言う。
「よっしゃ! 今すぐ手続きだ! うちは給料いいぞ!! わはは!」
「ええ!? そんな、あの、本当に!?」
 何気に疲労が溜まってナチュラル・ハイのヒューズは有無を言わさずシェスカを引きずり、最中でもシェスカは意を決して口を開いた。
「あっ、あの、お二方! ありがとう! 私、自信持って頑張ってみます! 本当にありがとう!」

 高笑いでシェスカを引きずったまま、ヒューズは出て行き、シェスカは二人に手を振り続けた。異様な光景にマリアもブロッシュも何もいえないまま、再度敬礼をして二人を見送る。

「人攫いかあのおっさんは……」
 苦笑しながら去り行く二人に手を振り、大きく息を吐いたエドはからかいを口にした。
「何かに一生懸命になれるって事はそれ自体が才能――か。言うねぇ弟よ」
「どっかの誰かさんを見てるとね――。本当にそう思うよ?」
 素早い切り返しと隠された賞賛に、エドは苦笑した。
「へへっ、そんじゃそのどっかの誰かさんは引き続き、一生懸命やるとしますよ」

 再びエドの意識が研究書に注がれ、はそっとヒューズに心話で話しかけた。


 一般人を同乗させたことに運転手は一瞬訝るが、それを表情には出さずに車を軍法会議所に走らせていた。
「あのー、これからどうすればいいんですか?」
「なに、まずは入隊手続きだ」
「え、私軍人になるんですか?」
「いちおう軍の機関だからな。それでも非戦闘員だし、福利厚生も充分だし賞与も年三回。生理休暇も出産休暇も最大二ヶ月のリフレッシュ休暇もあるぞ?」
「えー、でも」
「公務員になるって考えればいいさ」
「はぁ」
 それきりヒューズが口をつぐんでやたらと真剣な表情になったので、シェスカは疑問を言葉にできなくなってしまった。

<ずいぶん疲れているようだな>
<……こうやって話すのも、正直きついぜ>
<ああ、手短に済ませるよ。お守りは携帯してくれているかな?>
<ちゃんと持ってるけど、どうしたよ>
<いやなに、持続性は無いが、癒しの効力を今送っておいた。あとで直接皮膚につけてごらん。少しは疲れが取れるはずだ。疲労度にもよるが、二、三回は使えると思う>
<すげ>
<言っただろ? 役立てることなら何でもするって>
<……サンキュ。助かるぜ。こういっちゃなんだが、あんまり自分ひとりで抱え込むなよ>
<――アレックスにも言われた。気付いたらすぐに言うよ。じゃ、またな>
<ああ>









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