――――冬と春の間に夫を変質させ融解せしめよ。水を黒き頭に変え、満月の昇る『東』に向かい、多様なる色を通して起て。煉獄の後、輝く白い『太陽』が現れる――――


「わけわかんねぇ」
 つぶやいては錬金術の書籍を棚に戻して、5冊目の料理本を探しに書架を移動した。

(さて、今日は何にしようか)

 解読を開始して九日目。これまでの収穫はのレパートリーが増えただけだった。



 普通――暗号文書に普通も何もないが――暗号化は一定の数式、図式を根拠に作成される。いかなる言葉を用いても解読は、計算式さえ引き出せれば可能である。それを要する時間を考慮しなければ。
 ただし、古来より錬金術師たちが好んで使用した難解な用語も、準えも喩えも、マルコー・ノートには一切記されていなかった。



 メルルーのマスタード焼き……1人分。
 メルルー(切身)…80g
 塩…0.4g
 こしょう…0.01g
 白ワイン…0.8g
 マスタード…5g
 水…8g
 生パン粉…10g
 油…2g
 パセリ…少々
 プチトマト…1個

<作り方>

1.下味をつけておく。
2.マスタードは、水でさらりとする程度にとく。
3.1.を2.につけ、生パン粉をまぶす。
4.フライパンに油をひき焼く。



「わかるかちくしょ――――!!!!」
「兄さん……頑張ろうよ……」
 既に日課になった兄の絶叫を諌めつつも、魂が鎧から遊離するのをアルは無理やり押し込めた。
「ああもう単語でもシーザーでもアナグラムでも乱数表もパスフレーズもみ・つ・か・らないってどーゆー暗号だよこん畜生ぉ!」
「これだけシンプルな言葉が多いって事は、それだけ内容も多いから、糸口の一つぐらいあってもいいと思うんだけどね」
「ああああああマルコーさんに訊きてえ、でも訊いたらきっと負けだ何かに負ける……」
 悶絶寸前の表情で椅子に座ったままのけぞるという器用さにアルは重苦しさを重ねる溜息をまた吐き出し、外れだと思いながらも白ワインの意味を考えた。
「色だけで考えたら……でもワインって――」

「邪魔するぞ」
 アルの思考を柔らかに乱したのはの声だった。本館は飲食禁止だが、会議室は特権を駆使して食事を許可しているため、やってきたの手にはホテルで借りたワイン用の籐籠が下げられていた。
「あれ、もうお昼の時間?」
「昼過ぎだよ、とっくに」
 言いながら研究書には手を触れず、積み重なった辞書をどかして、そこに籠を置く。
「今日は何作ったんだよ」
「パンも良いけど、作業しながらの片手間じゃ食った気しないだろうと思って。茸の炊き込みご飯と錦糸卵、パセリ添え。オニオンスープつきでーす」
 掛けられていた布巾を取り去ると、そこにはふたの隙間からかすかにのぼる湯気もかぐわしい丼五個とほうろうのポット、そして5人分のマグが現れた。
「おぉー」
「うわぁ……」
「じゃ、軽く片付けてくれるかな? 置けるスペースがあればいいから」
「おう」
「う〜ん、なんでボク食べれな……」
「アル」
「あ、そうだね、ごめん
「気にするな。ブロッシュもマリアも、動いてないのに良く食べるからダイエットを検討中だ」

 皆で食事ができるスペースを作り、動いていないのによく鳴る腹をさする護衛二人を招き入れて少し遅い昼食を取り始めた。


「ご飯がこんなに美味しいなんて……軍の食堂でもリクエストしよ」
 恍惚の表情で丼をかっ込み、咀嚼しながらブロッシュは一人ごちた。
「炊き込みって便利ね、一度にお野菜もいただけるなんて」
 別な意味でマルコー・ノートの入手を検討するマリアが言い、今度作るときはにんにくと生姜をもう少しきかせようと思いつつ、米粒を飲み下したが口を開いた。
「図書館の食堂のおばさんに働かないかって勧誘されてるんだけど、短期でやろうかな」
「え、食堂の?」
「そ。料理は好きだし……解読が終わるまでってことで」
 実際にはキッチンを借りるとき、一緒におばさんたちの賄いを作っているので半ば勤めているようなものだが。
「そうそう、この世界の魚の種類がいまいちわかんないんだよね。メルルーサってマス科の魚はマスタードよりもサワークリームのほうが合ってるって、さっきおばちゃんに教えてもらった」

「え?」

「ほら、その研究書に書いてあっただろ、メルルーってのが何なのか辞書を引いても解らなくておばちゃんに聞いたら、ホントはメルルーじゃなくてメルルーサで、マスタードよりもサワークリームをかけるのが一般的だってさ」

「へー…………ってまじ?」
 おべんとつけたエドがを凝視し、
「うん」
「もしかして……他にも、そういうのあった?」
 震える声のアルが追随し。

「――――あ」

 人知を超えた速さで丼をかっ込みスープを飲み干しマルコー・ノートを全部持ってエドとアルは会議室を飛び出していった。


「……どうしたの、かしら」
 行儀良くナプキンで口を拭いたマリアが開けっ放しのドアを見やってつぶやき、残った面子の中で一番早く食べ終えたブロッシュが席を立った。
「自分が行きます」
「お願い、食べたらすぐ行くわ」
「ゆっくりでいいっすよ。じゃ」

 更に残った面子は、五分後、同時に箸をおいて席を立った。

 ただし、籠以外はここの借り物なので食器を持ちながら、賄いを食べ終えたと思われる食堂のおばちゃんたちの元へ向かった。



「へー、この本、男の人が書いたのかい」
「そ、そうなんです」
「いい線いってるけど、まだまだだね、ほれ、ここも違う。この量なら砂糖は十グラムさね」
「そりゃあんたも一緒だろ、昔の男の名前と旦那の名前を間違えたじゃないか。ポーク・チョップはラム酒が良いよ」
「あんただって勝負下着で――」
「ひゃひゃひゃ。ふざけてねえでちゃあんと見てやんなって。おや、これは正解だ」

 嬌声というか怒号というか咆哮というか。人生の大先輩には違いないがある意味でのヒエラルキーの頂点に立つ方々に囲まれながら、エドとアルとブロッシュはさながら子羊のように戦々恐々としながら、瞬く間にマルコー・ノートに赤ペンが走り、校正されていくのを見ていた。

「やっぱり若い軍人さんに見られてると気合が入るねえ」
「うちのひとのが、いい男っぷりだったよ」
「いまじゃよぼよぼのじじいだろうが」
「それもそうだねひゃひゃひゃ。ここは紅玉だろうね」


 たった二時間で校正は終了し、作業に忙しかったおばちゃんたちの代わりにとマリアが食器を洗い、片づけを終えたのも同じ頃で、お礼とばかりに籠に忍ばせておいたように『閉じた空間』からセカンドフラッシュを取り出しておばちゃんに振舞った。めったに口にできない紅茶におばちゃんたちは口々に喜びを口にして、これなら毎日見ても良いね、などと口走っていた。

 エドとアルはおばちゃんそっちのけで一心に研究書を見つめ、訂正箇所を必死に解読していた。
「そっか……ここは置換法であってる……」
「こっちはこの計算式で意味が合う……」
 喜びに顔を上げ、兄弟は立ち上がっておばちゃんたちに頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「これで謎が解けました!」

「そうかいそうかい。役立てられそうかい?」
「はいっ!」
 顔を高潮させたエドの表情は真っ直ぐな少年の眼差しで、おばちゃんたちの脳裏に在りし日の息子や思い人の希望に満ちたそれと重なり、顔をほころばせていた。


 マリアとブロッシュを兄弟と共に会議室に帰したは、一人残っておばちゃんたちと一服を楽しんでいた。

「あと数日でエドやアルの勉強が終わりそうだから、やっぱり働けないや。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「そうかい……残念だねぇ。うちの息子が司書でここに勤めてるんだけど、あんたのこと見初めて家でも騒いでたんだけどねぇ」
「マーリィおばちゃんの息子さんが?」
「そうだよ、ユーリッヒって名前でね、本館に居るよ」
「……もしかして背が結構高くて茶髪?」
「そうそう。会ったのかい?」
「……昨日食事に誘われた。エドたちの仲間だっていったら逃げてった」
「あっはっは! 度胸はあるけど根性がないね!」
「いやまあ、エドは国家錬金術師だし。マリアもブロッシュも軍属だから、バックに何かあると変に勘繰ったらしい」
「エドって、あの金髪の坊やだよね?」
「あんなに小さいのに?」
「勉強ができるんだね」
「……でも、戦争に行くんだねぇ、若いのに」
 一人が何気なく漏らした言葉が、休憩室を沈黙に染めた。送り出した経験があるかも知れないと思えば、も言及はしたくないので、ゆっくりと煙を吐き出した。

「なーに。私らは黙って送り出す。無事に帰ってくれることを祈るしかないさ。それに、大きな戦争はここ十年はないじゃないか」
「……そうだね」
「――――」

 大きな戦争は、ここ十年はない。

 イシュヴァールの内乱を知らないはその言葉がひどく耳障りに感じて、閉館まで一時間を切ったところで休憩室を辞して一人、歴史書の書架へ向かった。





 イシュヴァールでの内乱は、歴史上でもっとも大きな紛争の一つとして挙げられていた。宗教的観念の相違から対立し独立運動を続けていた一つの民族。軍の将校が誤射によりイシュヴァールの少女を射殺したのをきっかけに、爆発した抵抗運動。軍の投入。民族浄化。存命する一族の現実と未来。国家は唯一つの意志であり主体であるという理念がもたらした虐殺に、顛末だけを書籍から読み取ったですら、この行いは歴史により裁かれると感じていた。

(石そのものは実在していたという記録があるくせに、所有者の実在が確認できない――ただの伝説だと片付けるには無視できない事情に絡んでいるということだろうか……)

 ヒューズの言葉も気にかかっていたので、賢者の石が登場しそうな事柄を年表から探すことにした。アメストリス国の建国は千年以上前と古く、それゆえに様々な事件が起きていた。錬金術の登場とともに科学技術が急速に発展を始めた表の世界と、錬金術の発展のために失われた人命、事故、事件の多発していた裏の世界。特に近年での惨事は、技術が発達しているだけ輸送機関での事故が多発しているという現実があった。

 そして、古代では医療レベルが低く、感染病や疫病により多くの人命が失われていた。ひどいときには一夜にして都市の住民全てが物言わぬ骸になってしまったこともあったようだ。


 だが、その一方でまさに伝説とも言える奇跡が存在していた。

 未発達な列車事故で大量の怪我人を一度に歩行可能な状態にまで回復させたり、若い命が喪われたと嘆く人々のために蘇生を行い、のちに大賢者とよばれる事になったり。当時の技術からは生まれるはずもない、数世代先の高度な知識を伝えたり。

 飛び石の如く、時代の節目には必ず偉業を成し遂げた人物が見え隠れしていた。だが、該当する人物の著書はなく、あくまでも弟子や後継者が編纂した書籍だけが世に広められたと、関連項目には小さく記されていた。石油の精製に躍起になっていた時代、天然ガスを分離することに成功した翌年にはそれを動力源とした機械を実用化させる事など誰が想像できよう?

 にはこの世界の機械技術は殆ど解らなかったが、文明の異様な進化は歴史書に記された文章からも読み取ることができた。

(節目に現れた人物……多分、ここだろう)

 一通り現代までの流れを頭に叩き込み、後継者が編纂したという技術書を探して書架を歩き始めた。ゴシップやオカルトじみたタイトルが多い文芸書のコーナーに入ったところで、本を抱えた人物と危うく衝突しかけてしまった。

「あ、すいません」
「いえいえ……って、

 が見上げた視線の先には、マーリィおばちゃんの息子であるユーリッヒが長い手一杯に本を抱えて、温和な顔立ちが驚きもあらわに本の横から覗き込むようにこちらを見ていた。
「どうしたの? 探し物?」
 普段から口調もおっとりとしているユーリッヒは、相も変わらずのんびりとに話しかけた。
「ああ、ミニッツ・D ・グロウリーって人の本」
「へえ、『栄光の錬金術師』? だったらこの棚の裏にあるよ」
「ありがと」
 普段通りには答え、本を抱えたままのユーリッヒのそばを通り抜けようとした。
「ねえ、やっぱり友達からでいいからさ、遊びに行ったりしようよ」
「……それは多分無理だよ。しばらくはセントラルに居るだろうけど、何時また旅に出るかわからないから」
 ユーリッヒの交際の申し込みを、エドたちと錬金術の研究で旅をしているためと断ったは、同じ意味合いの言葉を口にした。だが、国家錬金術師が同行していようが気持ちに変わりは無いと肚を括ったユーリッヒはひるまず、ごく自然体で言い返した。
「居るときだけで良いから。話を色々してて、面白いし、気を遣わないで女の子と喋れるのって、嬉しいんだ」
「…………そういう風にいわれると弱いな」
「じゃあさ、気が変わらないうちに言うけど、今夜空いてる?」
「一杯付き合う程度なら。でも酒は弱いからそれ以上はお茶だよ?」
「ホント?」
「口説きだしたら帰るよ」
「もう簡単には言わないよ。じゃあ、上がったら迎えに行くから。どこのホテルに居るの?」


 好意を向けられるのは悪い気はしないが、広く浅くの交遊に止めておこうとは決めていた。








『師は研究に行き詰まるとまず散歩や沐浴で気分転換を行い、大抵はそれで素晴らしい成果を挙げていたのだが、ごくまれにどのような行いも師の気分を晴らすことができない時があった。そんな時、師は一人自室に篭り、わずかな時間ですぐに気分を落ち着かせていたので、我々はいかなる方法で精神の平常を保っているのだろうと考察したこともしばしばあった。だが、ある日、我らの仲間がついにその秘密を発見したというのだ。数日前にも師が自室で篭って、その者が食事を持っていったとき、師の懐にあかくかがやく物質が見えたというのだ。鉱石が光を受けたときに発する光を、師の懐にありながらそれは自らの力で輝いていたようだったとその者は語った。物質の特性、師の行動。それは赤きエリクシルに他ならないと我々は思った。いかなる物質も変化せしめるという赤きエリクシル。師はその力を精神作用にまで転化させていたのだ。我々はすぐに師に掛け合い、更なる研究のため赤きエリクシルの生成を申し出た。しかし、師は我らにはいまだ錬金術の基礎を終えたばかりであり、過程を無視した研究は言語道断と激怒した。師はその次の月に行方が知れなくなり、再び会うことはできなかった。我々は残された研究を完成させようと努力し、今日の成果に至るのだった』


 ミニッツ・D・グロウリーという錬金術師の弟子たちが書いた伝記を読み終えたとき、閉館を告げる鐘が鳴った。



「ただいまー……うわ暗っ」
 会議室へ戻ったが見たものは、深淵の奈落の只中に居るエドとアルの姿だった。

「せっかく直してもらったのに終わりじゃなかった……」
「ふむふむ」
「いくつかのパスフレーズは見つかったんだけど、文章全部じゃなくて、少しずつ織り込んであったんだ……。また最初から読み直して、新しいフレーズを拾わないとダメみたい……」
「そりゃまた手が込んでるな」
「それだけ実力も頭脳もあるって事だろ、やっぱ」
 頭の後ろで手を組んで伸びをするエド。
「解き方は解ったんだろ?」
「まあなー。でもめんどくせぇ……」
「ゴールは見えてると思うが」
「爪楊枝ぐらいの距離感でね」
「…………ここまで来たんだから泣き言言うな。ほれ、帰るぞ」




 ホテルに戻り、仕込んでおいたポトフと温野菜の盛り合わせと、豆を詰め込みハーブと塩で味付けしたロースト・チキンをテーブルに並べたは、軽く食べるだけにして席を立ち、久々にウィンリィに譲ってもらった水色のフレアスカートと黒のブラウス、小脇にドレス用にとハッシュで購入したジャケットとポーチを抱えて戻ってきた。
「あれ? 何で着替えたの?」
「図書館で友達ができた。そいつが飲みに行こうって誘ってくれたんだ」
「男?」
 百五十キロストレートでマリアが問う。
「……まぁな」
「どう考えても下心一杯だよ? 断らなかったの?」
 ブロッシュの同性ならではの素直な言葉に苦笑を浮かべては言い訳を口にする。
「最初に言ったよ。エドたちと同行してるって」
「それでも言ってきたんだ。根性あるなあ、そいつ」
「まずはお友達からだってさ。物珍しさがなくなるんだったら適当にお付き合いするほうが気が楽だし。いつ、セントラルを出るか分からないだろ」
「…………思わせぶりな態度に取られるような行動はしないでね。男って結構自意識過剰だから」
「それは……どんなのがそうなんだろうか……」
 本気で困り果てて、頭を悩ませるにエドは苦々しく言った。
「不用意に近づいたり、必要以上にやさしくすんなって事だろ。そういうのって誤解しちまうんだよ」

「…………」
「……」
「――――」

「なるほど。気をつけよう」

 チキンを貪り食うエドを凝視する三人を不思議に思うが、素直に感心したが頷くと、ボーイが来客を告げに訪れて、は出掛けていった。


「ったく、なんでオレがあんなことまで言わなきゃなんねーんだよ」
 骨の周りの肉を齧り、殻入れのボウル皿に骨を投げ入れたエドは毒づいた。










 徒歩で案内された店は、中央図書館の近所にあるスロウフロウというバーだった。黒檀の柱と漆喰の壁で仕切られた個室が多い廊下を抜け、ぴかぴかに磨かれたオークのカウンター席に二人は腰を下ろした。ユーリッヒは常連の強みで淀みなくアンティールを注文するが、はメニューを睨みつけて困惑していた。
「……どうしたの?」
「こういうところ、殆ど来た事無いから、何を頼んで良いのか……」
「弱いとは聞いてたけど……普段飲まないんだ?」
「ああ、自分から進んで飲むってことはまずない」
「もしかして、苦手?」
「いや、慣れてないだけ」
「そうだったんだ……じゃ、これにしなよ」
「フローズン・オレンジ・ブロッサム?」
「そう。口当たりいいし、そんなに強くないから」
「そうか」

 ユーリッヒとの出会いは中央図書館に来てすぐのことで、マルコー・ノートに記載された料理を覚えようと、普通の料理本や食材の情報収集に書架を巡っていたときだった。勤続六年目で培った豊富な知識で、の要求に即した本を紹介していた。今の業務に定期的な虫干しが含まれるユーリッヒとは連日図書館を訪れるため良く顔を合わせるようになり、声を掛け合う程度に顔見知りになっていった。
 顔見知りが酒で親交を深めると、最初は当たり障りのないところから探りあいが始まる。
 軽くグラスを掲げて乾杯、と言って喉を潤したユーリッヒは当たり障りのない問いを投げた。
「旅してるって聞いてるけど、どこから来たのかな?」
「遠い南の島……っていうか大陸の、海沿いの街」
 唇を湿らせる程度に口をつけただけのを見つめてユーリッヒは訊く。
「南の出身にしては肌白いねー」
「ああ、色んな人種がいるから」
「地元でも錬金術が盛んなんだ」
 魔術だと訂正したい思いが頭を掠めるが、そこは我慢して模範解答を口にする。
「まあね。ユーリッヒはここが地元なのか?」
「いや、ユースウェル。東の終わりの炭鉱の町。親父が炭鉱で働いていたんだけど、胸を悪くして働けなくなって、当時はまだ儲かってたから、退職金もらってこっちにきた」
「すぐにこの図書館に就職したのか」
「その時は学生だったからべつのバイトして稼いだ。お袋が食堂に勤めるようになってから、図書館の勤務に興味が湧いたんだ。元々本は好きだったし」
「なるほど」
 会話の合間に一杯目を飲み干し、セスクウィをオーダーして話を切り返す。
「どんな錬金術を研究してるの?」
「医療系……だね、カテゴライズすれば」
 元居た世界での治療専門家は精霊神官だが、魔術で精神への作用や癒しを行使する力を考えれば間違いではなく、ユーリッヒは感嘆の声を漏らした。
「すごいね、じゃ、お医者さんなんだ」
「卵になったばかりだよ」
 苦笑して煙草を取り出し、煙がユーリッヒに行かないように風の流れを少し変えた。



 ユーリッヒは取り立てて話し上手ではなかったが、自分が見聞きした情報をそのまま伝えるのではなく、自分なりの解釈を加えて話すので、世情に疎いでも何とか話についていくことができた。国境周辺では他国との小競り合いが頻繁にあるようだが、それ以外は割と平和な状態であることが知れた。ようやくが二杯目のエリクシールを口につけたときには、彼は四杯目のトレイラーを半分まで減らし、急速に回り始めたアルコールと親密になっていた。
「……大丈夫か?」
「平気平気。すぐ酔うけどすぐ抜けるんだ――ねえ、いつまで居るの?」
「エドたち次第だけど……早けりゃ二、三日だなあ」
「そっか…………遊び仲間になったと思ったらいなくなっちゃうのか……」
 肩を落として嘘泣きをするユーリッヒの肩を叩いて煙草を喫う。
「おいおい、職場の同僚はどうした」
「この前結婚ラッシュで家庭持ちになって遊びにくくなった……」
「同じ趣味の友人は」
「釣りとか山歩きだけど、セントラルじゃあんまり居ない」
「資格取るとか」
「大体取った。鉱石加工技術者なんてレアなものも」
「鉱石加工? ってことは、工房を持っているのか?」
「いいや、設備投資だけで一千万でも足りないような職業についてたら図書館じゃ働いてないって。それに俺あんまり器用じゃないんだ。手に職つけることにあこがれていた時期があって、幸運にも取得できただけさ」
「そうか……個人で維持するのは大変なんだな」
「興味あるの?」
「ちょっとね。お守りで石を使うことがあるのは知ってる?」
「ああ、恋のおまじないなんかであるよね」
「宝石にも魔力があって、人を惹きつけるのはその所為だと」
「あー、それならなんとなくわかる」
 冷えたグラスを頬に当てて気持ちよさそうにユーリッヒはのんびりとこたえた。
「鉱石には色の効果もあるけど、石自体に何らかの効果を持つものがある。それを今の研究の中に取り入れてみたいなって思ってるんだ」
「ああ、だから加工の……」
「ほんとにやりたくなったら声をかけても良いかな?」
「うん。気長に待ってる。でもたまには遊ぼうぜ」




 四杯目で打ち止めにしたユーリッヒは、店を出るころにはすっかり酒気が抜けていて、をホテルまで送るために二人で官庁街を歩いていた。街頭が整備されていなければ出歩く人も、家の明かりもない区画は月明かりもどこか弱々しく、ゴーストタウンのように静かだった。
「もうちょっと行けば少しは賑やかなんだけどね、図書館をはさんで住み分けされてるから」
「……ここら辺の治安は良いのか?」
「一応、定期的に憲兵が見回りしてるよ。絶対安全だとはいえないけど」
「ふむ」

 二つの区画を抜け、三つ目の区画に入ったとき――――それが現れた。

 身に纏う色は闇。一定のベクトルの力を凝縮したそれは人ならざる魅力に溢れ、初夏でもゆるゆると冷える夜間には些か肌を露出しすぎた姿で、ビルの壁にもたれて闇と同化してそこに居た。裸足で音もなく街灯の下に移動し、馴染みのように足を止めた二人に声をかけた。
「こんばんは。お二人さん。いい月夜だね」
「あ……ああ。こんばんは」
「確かにいい月だが、寒くないのか?」
 唐突な挨拶に言いよどむユーリッヒに対し、は直球をそれに向けた。
「ぜーんぜん。いま犬が逃げちゃって、走ってきたから」
「大事な犬なんだな」
 言っては足元を見やった。
「うん。すごい大事。こっちに走ってこなかった? 犬」
「いいや。鳴き声も――向こうから来たけど、何もなかった」
「そお。ありがと。じゃあね」
 素っ気無い態度でそれは別の区画の方向に走っていってしまった。


 それが去って、しばらくの間が過ぎてから、ユーリッヒは深い溜息を吐いた。
「あー、びっくりした」
「全くだ。不審者だとは思いたくないが、夢遊病者がいたとか嘘でも苦情を言っておいたほうがいいだろうな」
「……なんか、立場が逆転してる気がする……」
「旅するとな、いやでも度胸はつくんだよ」



 ホテルの前まで来ると、エドが階段を下りてきたところに出くわした。の顔を見た途端、エドは挙動不審になり、辺りを必死に見回していた。
「あれ? どうした?」
「えーと、いやその」
 しどろもどろになるエドが不思議でたまらず、はエドを凝視した。
「小腹がすいたなら、ルームサービスで良いだろう、もう店は閉まってたぞ」
「あー、ああ、やっぱり無理か。じゃ仕方ねえな。あは、あはは」
「じゃ、戻ろう。じゃあなユーリッヒ。そのうち遊ぼう」
「…………そうだね。近くまで来たら図書館に連絡入れてよ」
「うん」


 いまだ空笑いを続けるエドを連れ添ってがロビーに消えると、ユーリッヒは何度目かの溜息を吐いてぼやいた。
「あんなナイトがいたんじゃ、見込み薄いかな」














 犬は西を目指して全力で疾走していた。
 走ることに長けた脚が限界を訴えていたが、無視して走り続けた。
 今夜さえ逃げ切れれば。
 だから走る。駆ける。走る。駆ける。走る。駆ける。走る。駆ける。走る。駆ける。


 いびつな円を描く月明かりが、夜明けまで犬を照らし続けた。















 十日目――――昼食の生ハムのピタを平らげたときは、解読時の達成感に満ちた表情をエドはしていた。
 だが、おばちゃんたちに昨夜のことをかいつまんで説明し、談話を終えて戻ってきたら、思いつめた表情で、一心に暗号を解き続けていた。怪訝な表情でエドを見つめていると、アルが無言で解読に成功した用紙を見せてくれた。


『賢者の石は――――を材料とする。純度の高いものを精製するには更に多くのそれが必要になるが、研究で得た不完全ながらも機能する賢者の石は工程は同じだ』

 あとには化学式や計算式が工程順にだろうか、百を超える番号を割り当てられた状態で記されていた。その中で、頻繁に登場する記号があった。

C10H16N5O13P3

 それこそが暗号めいているとは思ったが、二人がペンを走らせる度にどこかしらに同じ言葉が刻まれていくので、全く馴染みのない、科学で用いる用語なのだと、記号と二人をしばし交互に見つめてから気付くことができた。科学か、化学か。見当はつかなかったが両方とも調べてみようと使うことのなかった辞書類に手を伸ばし、Cという言葉の意味から取り掛かった。





 Cは炭素でHは水素。Nは窒素、Oは酸素、Pはリン…………。それぞれが元素だと理解したとき、辞書の関連項目にATPという言葉があり、何気なくそこを開いた。…………だが、言っていることがいまいち理解できず、タイミングよくペンを置いたエドに問いかけた。

「なあエド、ATPって何だ?」
「――アデノシン三リン酸の略。細胞のエネルギー源」
「研究書によく出ていた言葉だったな」
「ああ、出てた。……最初はわけわかんなかった。何でこんなに出てくるのか」
「わかったのか」

 その時、閉館を告げる鐘が鳴った。

「――――ああ」
「細胞のエネルギー源だといっていたが……生物がかかわる研究内容だったのか」
「そうだよなあ、確かに生物だ」
「……うん。確かに生物だよね」
 それまで黙していたアルも同意する。
 鐘の余韻の中、マリアが扉の向こうから声をかけてきた。
「お二人とも、閉館の時間ですよ」

「でも……こんなのって……」
「ふっ――――ざけんな!!!」

 こらえきれず。椅子から勢いよく立ち上がってエドは声を上げた。

「ど、どうしたんですか!?」
「兄弟ゲンカですか? まずは落ち着いて――」

「違いますよ――――暗号、解いてしまったんです」
 底冷えのする声でアルが言うが、慌てていたブロッシュは言葉の上澄みだけで言い返した。
「解けたんですか? よかったじゃないですか」
「ちっともよくねえ!」
 精一杯の否定をしたエドは苛立ちを床にぶつけるように胡坐をかき、額に染み出た冷や汗を手で拭い、そのままうなだれた。
「…………悪魔の研究とはよく言ったもんだ……恨むぜマルコーさんよ……!」
「……一体、なにが?」
 エドと目線を同じにしたブロッシュが膝立ちで問うと、掠れ声でエドは言い放つ。

「賢者の石の材料は――――生きた人間だ!!」

「にん……げん」
 小さく反芻すると、途端に事実が重く圧し掛かって来た。

『賢者の石は生きた人間を材料とする』

「しかも一個精製するのに、複数の人間が必要だ……!」

『純度の高いものを精製するには更に多くのそれが必要になるが、研究で得た不完全ながらも機能する賢者の石は工程は同じだ』



 求めたものを手にするには、あまりにも残酷な前提。



 細く長い溜息を吐くと、息を呑むマリアとブロッシュを見上げ、自嘲気味に口端を上げたエドは続ける。

「確かにこれは知らないほうが幸せだったかもしれないな……」

「そ――そんな非人道的な事が軍の機関で行われていたなんて――――」
「許されることじゃないでしょう!?」

 ブロッシュとマリアが非難の言葉を言う後ろで、が本の整理を始める姿を見たら、吐露したい感情が急速に冷えていったエドは静かに口を開いた。

「……ロス少尉、ブロッシュ軍曹――――この事は誰にも言わないでおいてくれないか」
「しかし……!」
「たのむ」
 声を荒げたブロッシュを確かな声でエドは制した。

「たのむから聞かなかった事にしといてくれよ」














 無言のまま自室に篭る兄弟を見送った三人は、マリアとブロッシュの部屋でそれぞれソファにへたり込んだ。



「……なんか……疲れたっす」
「そうね……」
 結界を張って、二人には見えない角度をいいことに魔術で紅茶を淹れながらは煙草に火を点けた。
「私の居たところで、邪法、禁呪やらの呼び名で分類される魔術があるが――――その殆どがヒトの生命、ないし魂を媒介にして成り立つ。賢者の石とやらも、その類だったようだな」
「もしかして……」
「使うわけないって。一度でもそんなことしたら、私は精霊の加護を失って魔術師失格さ。ただ、賢者の石の在り様には納得できる」
「なんでよ!?」
「錬金術で支払う代価を自分じゃない何かであがなうなら、他の誰かから奪うしかないだろ?」
「理屈ではそうですけど、だからって」
「軍部がそんなことしていい理由にはならないわ」
「何時の時代も権力者は力を求める……本末転倒なんだって事も気付かないまま」
 淹れ終えた紅茶を取りに席を立つ。そこで初めていい香りが部屋に満ちているのに気付いた二人は顔を見合わせて深く息を吐いた。
「これから……どうされるでしょうね」
「しばらくはそっとしておきましょう――――残酷すぎるもの……」

 欲しいものは人を殺せば手に入ります、なんて。



 ほんとうに欲しかったのは――――

(気付いて、諦めたら……動けなくなる。貪欲なほどに求め続けるしかないか)

 同じ境遇にあれば、それほど差は無い立ち回りをしただろうと理解はできる。

(――――いや。周りが見えなくなることだって同じだな)

 マリアとブロッシュにマグを渡したは二人分のマグを持って廊下に出た。

 向かいのドアをノックして、返事は無かったがそのままドアを開けた。

「入るぞ」

 明かりはアルがつけたのだろう、室内を煌々と照明が照らしていた。
「あ……」
 床に座り、ソファの後ろに背中を預けたアルが小さく声を上げるが、ソファに寝そべるエドは身じろぎもせず黙したままだった。

「不完全な、って研究書にも書いてあったんだ。方法はきっと――ほかにもある」
 言いながらマグをテーブルに置く。
「しばらく休めばまた、気力も湧いてくるさ」
 軽く笑いかけても効果は無いことは知っていたが、笑みをエドに向けてはドアの前に立ち、ノブに手を掛けて言った。
「型の鍛錬は休むなよ。拗ねるだけじゃ何も変わりはせん」
「…………せぇよ」
「ちゃんとできたらご褒美をあげようか」
「いらん」
「そうか、残念だ。熱い抱擁と添い寝を提供するつもりだったが――いらんか」
「――――ってめぇは……!」
「兄さん!」
 突如、エドはソファから飛び降りてをドアに叩きつけた。

「そうやってオレたちの事、からかって満足かよ……!?」
 スーツの襟を締め上げられながら、苦しげに、それでも嗤いながらは答えた。
「炊き付けたのは……事実だなぁ」
「んの……」
「足掻いてもみっともなくても求めているんだろ? だったら諦めるんじゃない! 誰がなんと言おうと私は」
「な――」
 逆襟を取っては、そのままエドを抱きしめた。

「お前たちを信じるし、助けになりたい……。だから――出来る事なら、何だってする」
 頭をかき抱き、意外に柔らかな頭髪に頬を押し当てる。
「いくらでも言えばいい。好きなように使えばいい」
 頭に置いていた手を、背中に伸ばし、あやすように叩く。
「ちょ、ちょっと待てよ、何でそんなこと言えるんだよ?」
 エドは慌てての肩を押しやり離れた。
「そーいう事って家族とか、大事な奴だけにすることだろ?」
「大事な奴だから」
「なっ」
「私にとって大事な奴だから言ってる。そうじゃなかったら、こんなことは言わない」
「そ――――それって」
「私の家族ぐらいに大事だと思ってる」

「…………」
「助けてくれた恩もあるし」
「……そっか。家族か」
「ああ」




 ほんとうに欲しいものは。





 温くなった二人分の紅茶を飲み干し、エドはマグをに突き出した。
「サンキュ。もう寝るわ。練習はするからさ」
「――わかった」
 金色の瞳に翳りがうつるのは見えたが、退室を暗に言われては部屋を出た。ドアを閉めると、すぐに鍵が掛けられ、自らの失態を呪った。





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