エドは無論入院患者のため、病室のベッドで寝泊りを余儀なくされる。が。
「何で全員おんなじとこで寝てるんだよ……」
 エドの隣にアル、、入り口付近にマリア、ブロッシュがそれぞれ簡易ベッドで横になっていた。午後十時の消灯時間になり、超健康的な一日が終わろうとしていた。
「そりゃあ、どっかの誰かさんが抜け出したりしないようにさ」
 すっかり素の口調になったブロッシュがエドに笑いかけた。
「……うっわ信用ねえ」
「二人の信用はいまや砂塵ほどに小さいと思うが?」
「えー、米粒以下?」
「塩の結晶でもいいぞ」
「もっとひでぇ」

「あ、そうそう、整備師さんは何時ごろ来るの?」
「んー、時間通りなら土曜の昼過ぎ。西口に目印が待ってるからって言っておいた」
「目印?」
「すっごくわかりやすいのだから」
「……その目印は今日は非っっ常ーに残念だけどこれなかった人かな?」
「そうそう。て言うか来たら来たで入院が長引きそうだから来るなって人」
「うーん。反論できない……」

「ウィンリィ、怒ってなかったか?」
「……いやそれが……なんか気色悪いぐらいやさしかった」
「あ――、やさしかったんだ」
「なんかあったのか?」
「女同士の秘密にしておくよ」
「いいじゃん教えろよ」
「まてまて、簡易ベッドは二人分の加重に耐え切れん。つーか怪我人は大人しく寝てろ」
「いで。その怪我人殴るなよ!」
「やかまし。追加の分だけは癒してやる」
「そこだけってかえって面倒なような……」

「こらぁ!」

 薄暗い部屋の中、いっせいに身をすくめ、恐る恐る入り口を見ると。

「特別許可出してるんだからね! 大人しく寝なさい!」

 洋灯を掲げ、うす黄色い光のコントラストに包まれた看護婦が仁王立ち。

「はーい……」

 看護婦は優しいと言うのは幻想であったと理解した面々だった。











 指すら入れたことが数えるぐらいしかない内側に、冷たく、無機質な医療器具が差し入れられる感触はきっと慣れないだろうと思った。

「うーん……触診した限りじゃ、何もおかしいところは無いわね。正常に発育してるし」
 翌日の休診時間の診察室で産婦人科の担当医師、フォー・ブラウンは診察台から降りて衣服を整えたに率直に言った。水霊の診断は人間が診るよりも正確であることは充分解かってはいたが、だからといって泰然自若とできるほど大人ではなかった。

「…………自覚が無いので、他に原因があるとすれば何ですか?」
「煙草、かしらね」
「う……」
「でも……精神的なものだわ。採血した分で調べてみるけど、時間がかかるから」
「そうですか……ありがとう、ございました」
「結果が出るのに一週間あるけど、異変があったらすぐに連絡してね」
「はい」

「……けっこう、大変だったのね」
 ジャネットが気遣うように小声で言う。
「まあ……症状がはっきりすれば気も楽だよ。いますぐ治したいわけじゃないけど、一生はさすがにきつい」
「そうね」
「でも無理聞いてくれて助かった」
「だぁって、女の一生を左右するのよ? こんな大事なこと、放っておけないわ」
「……ありがと」
 産婦人科と小児科は妊婦さんも赤ちゃんも未就学児もごちゃ混ぜの状態でそれぞれの診察を待つ。保険証代わりの身分証明書が功を奏したのもあっただろうが、そんな中で特別に時間を割いて診察してくれた医師も、そして頼み込んでくれたジャネットにも心底感謝していた。二人は走り回る子供を避けながら入院患者の病棟に向かっていた。エドの病室は特別待遇の一階の病室のため、中庭を抜けて行くと近いと教えられ、屋上とは違って緑に囲まれた中庭に、老人に囲まれたアルの姿を見かけた。
 和やかに談笑するということも無く、ただ、だまって日向ぼっこをしているようだった。
「……どうしたんだろ」
「なぁに?」
「いや、あの鎧の。エドの連れ」
「……ああ、鎧のアル君か。なんかおじいちゃんおばあちゃんに人気があるのよ。じっくり話を聞いてくれるって」
「…………へえ」
「さ、行きましょ。エド君を紹介してくれるって言った約束、忘れたとは言わせないんだから」
「わかったわかった。――頼むから、内緒にしててくれよな」
「もちろん。患者の守秘義務はナースの第一の義務よ。だから早く行こう?」




「――というわけで。エド専用看護婦になったジャネット・ヘミング嬢です」
 いったいどんなパイプを持っているのか。昨日屋上でエドの事を話したばかりだというのに、エドに挨拶する直前、辞令が降りたのだと明るく彼女は言った。専用でもけして赤いナース服は無いので他の看護婦と同じ丈の長いスカートにエプロンをした、ナースキャップが無ければメイドさんに見えそうな服で、実に楽しそうにジャネットはエドに挨拶した。
「よろしくね」
「…………はぁ」
 
 男性陣の中で素直に喜んでいたのはブロッシュだけだった。アルも、こういうときは感情を出すことが多いのに、素っ気無い態度で病室を出て何もする気力が湧かないまま院内をうろついていたようだった。

 アルの態度も気になったが、週末はここでもうひとつの治療があることを知らせておく必要があったエドは、アルが消えたドアに目線をやりながら声をかけた。
「っと、そうだ、ヘミングさん」
「ジャネットでいいわよ、エド君」
 エドに必要以上に接近してエドの視界をふさいだジャネットが告げる。
「っ……あの、週末に、オレの機械鎧の整備師がこっちに来て、出張整備してくれるんです。だから……」
「はい。整備師さんが来たら教えてね? 整備する直前に室内消毒しないと傷に響くから」
「お願い……します」

 こちらの言わんとすることを、鮮やかに言を継いでジャネットは微笑んだ。




 その日の診察で縫合箇所の消毒による痛みを必死に堪えたエドは、医師が去ってから深い溜息を吐いた。
「――――なんでこんなに滲みるんだよ……」

 一週間以上の入院となると普通は私物の寝間着を着て過ごすものだが、エドは元々寝間着を持っておらず、病院側もサービスなのかあてつけなのかは判らないが、手術直後に着せる病衣を支給していた。尤も、陽気も良いし温度管理も行っている院内では丁度良い服装だったし、エドが大人しく養生していれば甚平などに変えてくれたかも知れないが、目を離すと途端に出歩いてしまって回復が遅いので包帯を巻くのに手間が掛からない病衣しか着せられない現実もあった。
「傷口の大きさもそうだけど、昨日開いちゃったからねえ、縫合してすぐに」
 ジャネットが呑気に脇腹の包帯を巻き直しながら応える。
「でも声ひとつ上げないなんてすごいね。大の大人でも飛び上がるのよ?」
「なんでそんな刺激の強いの使うんだよ……」
「すっごく治りが早いからよ」
「どのくらい?」
「エド君の傷の状態がこれ以上悪化しなきゃ、二週間は縮むわね」
「マジで?」
「静養しててくれればね?」

 息がかかるほどの至近距離でたしなめられ、思わず頬を染めたエドを見てその素直さに抱きしめたい衝動に駆られたジャネットだった。しかしそこは大人の女。微笑で動揺を蔽し、包帯セットを持って病室を出て廊下に誰も居ないのを確かめてから――――

「……うーん、まずいわ、エド君可愛い……」

 お気に入りの研修医とは又違った魅力に、退院するまでの間……充分楽しめそうだと思った。








 
 ――――小学校でウィンリィと仲の良かった娘の名前は。


 ――――兄さんが嫌いだった牛乳を届けていた牧場は。


(少しずつ、本当に、少しずつだけど)

 些細な事を忘れていることに気付く。

 きっと、身体がちゃんと在れば気にしない、瑣末な事なのだろうけど。

(現在のボクには――信じられるものが)

 エドがどれだけ、傍に居てくれても、魂だけの存在では触れる事も出来ずに居て。

 温もりも、感触も亡く。




 ほんとうにほしいものは。





 何をするでもなく、ただ、時の流れるままに、アルは中庭の芝生に坐り続けていた。
 人間の三大欲求を悉く削がれた存在の精神体。
(遺された感情は、その欲求は受肉せしモノよりもはるかに貪欲で……一途か)
 そのアルを屋上からは見つめていた。もう四日も前になるが、あの時対峙していたもう一人のガーディアンに何を吹き込まれて、何を思っているのかなんて。
 ――――今の自分には勝手に流れ込んでくる。
 精神体と直接交流する魔術は確かに習得しているがアルの望みはそんなところには無いだろうし、いくら言葉で伝えようとも、精神に感応しても、その空虚を埋めることは出来無ない。

(まだ、触れる事のできるエドの方がやりやすい……。それに、エドは自覚が無い)
 近親者ゆえに薄々気付いているようだが、明確な言葉にはなっていない。


 身体が在るが故の痛みと、無いが故の痛みの隔たりは余りにも深く。


「…………いたい、な」
 力の無い己に歯噛みしても、現実は、過去は覆りはしない。思わず洩れた呟きに、自らの腕を抱き屋上の手すりに寄りかかった。無性に口寂しくなって煙草に火をつけてみるがどうにも旨いと思えず、誰も居ないのをいいことに魔術で煙草を消したところでアレックスが屋上にやってきた。

「此所に居たのか。捜したぞ」
「……仕事はいいのか」
「国家錬金術師の動向を探るのも仕事だ。警戒態勢も解除されておらぬのでな」
「そうか」

「…………何故、我輩にエドワード・エルリックの怪我の事を言わなんだ」

 静かな口調だが、確実に怒りの感情が込められた言葉を、は流すように言い返した。
「死ぬほどの重症じゃないし、マリアたちからの報告ほうが適切だろ? 心話でいきなり伝えられて、声を出さない自信があったか?」
「……それは……そうだが……」
「ヒューズもそのうち来るんだろう?」
「うむ。今日にでも。…………だが、その前に」
「え……」
 が顔を上げた時には、アレックスの大きな手が、の頬を包み込んでいた。

「…………無茶をするなと言ったではないか」

「…………」

「独りで抱え込むなとも、言ったはずだ」

 優しくされると、今の自分は弱くて、思いもよらないかたちになって声が出て。

「……口惜しいなぁって、おもった」

「……」

「エドの痛みも、アルの痛みも、踏み込んじゃいけない処まで視えてしまうのに、私には何も出来無い。あいつらの希う事は、ごく当たり前の気持ちで――――」

「そなたは心が……」

「探りたくて探ってるんじゃないさ。ただ、昂ぶった感情は指向性を持つ……その感受を、防御してても……力が戻ってないから、完全に遮断できない」
「口に出せぬ想いを、感じていると?」
「――――ああ。でもそれはアレックスにも言わない。誰にも、言えない」
「……そうか」

「…………いまは、優しくされるの、辛い」
「なぜだ」
「――――泣きたくなるから」
「泣けばよい。それから、考えればいい」
「違う。これは、私の……感情じゃ、ない……」
 温かさがじくじくと癒える事の無い傷に滲みて――――制御できなくなる。

「……っ」

 こんな所で泣いてしまってはいけないと理性は訴えているのに、一度堰をきった感情はそのまま泪となり、瞬く間に頬を零れ落ちていった。アレックスは手を離さぬままそっと告げる。
「こちらの世界に来てから色々ありすぎたのだ。無理はするな」
「…………最悪だ……いま泣いたって……何も……変わらないんだぞ……」
「そなたの身体のためにはなるだろう」

「――――」

「専属看護婦とやらのジャネット・ヘミングが言ったのではない。そなたを診察した女医殿が老婆心から我輩に伝えてくれたのだ」
 アームストロング家は確かに名家で、そこの長男坊が後見人になっている女性を診察すれば――――何かしらの報告はたとえ守秘義務があっても伝わるのは当然と言えば当然だった。

「…………ほんと、最悪……」

「エドワード・エルリックの傷が癒えるまでの間に、出来る限りの治療をしよう。男である我輩には測りかねるところだが、協力は惜しまん」

 思念に指向性があり、ついでに思念の発信源と接触していれば否応無しにむき出しの感情が伝わってきて、圧倒されたはまた新たな泪を零したまま、掠れた声で呟いた。
「なんで……そんなに」
「好ましいと思う者を大切にしたいと思うのは普通であろう?」

「えーとつまりそれは」
 告げられた内容はシンプルすぎて理解が出来ず元々大きな目を丸くして。

「泣き止んだか」
 言葉を紡いだ者は端的な事実を口にして手を離した。


「…………躱されたのかなもしかして」
「何を躱すのだ」
「…………なんでもね。ていうか、さっきからエドの生命力が激減してるんだけど」

「うむ。感激の抱擁をエドワード・エルリックに行ったが」

「……まあ、アレックスのお勧めに乗るか」

 泣き腫らしたまま笑うと顔が痛痒いので魔術で癒し、はアレックスと共に踵を返した。

(世界とのズレがこの身体に出ているとしたら――――本気で還らないとまずいな)

 このまま居たらきっと、魂から保たなくなる。




 屋上から屋内へと戻る階段の踊り場に、なにやら難しい表情のヒューズが二人を見上げていた。
「あれ、もう来てくれたんだ」
「……まぁな」
「ご苦労様です。中佐殿」
 とアレックスが交互に声をかけるが、曖昧に応えてそのまま口をつぐんでしまう。
「…………どうか、したのか?」
 ヒューズを見上げてが言うと、しばし押し黙っていたヒューズは口を開いた。
「――――俺から言うのもなんだけどよ、濡れ場は他所でやってくれねえかな」

「は――――」
 絶句するを見て更にヒューズは言う。
「大将もな、女を泣かすのは違う場所で――――」
「っちょい待ち! …………見て、た?」
「ああ」
「……まずった……結界……」
 口元に手をやってうなだれるの反応に、何気に硬直してるアレックスの態度に、ようやくヒューズは違和感を覚えて。
「え? 違うの?」
「違うわ――! あれはその、色んな事があって……感情……防御が」
 言いながらまた勝手に涙が出てきて、最後まで言えずに嗚咽を堪える。
「え、え? どういうこと?」
 突然泣き出したので狼狽するヒューズに、の肩を抱いて寄せたアレックスが言を継いだ。
自身の力が完全でないため、周囲に居る人間の感情に引きずられてしまうそうです。中佐殿が見たのもそのときの事でして」
「感情に引きずられる……」
「特にここは生と死が混在している。その中でも強い感情は我々にも影響が及ぶことがありますが……は非常にその影響を受けやすい状態にあるようです」
「平たく言うと?」
「好むと好まざるとにかかわらず、他人の心が見えてしまうようです」

「…………なるほどな。意思表示に泣き出すのは赤ん坊ぐらいだが、それに近いっちゃ近いか」

「……途切れると途端にこうなるんだ――――だから気を張ってないといかんのだが」
「もういいのか」
「うん。ありがと」

 周囲に自分たちしか居ないことを確認したは、また腫れてしまったまぶたや充血した目を魔術で療し、ヒューズを睨みつけて言った。
「ったく、何が濡れ場だ。せめて愁嘆場と言え」
「大将のカゲに隠れてじっくり見えなかったんだよ。――つまんねぇの。期待してたのになー」
「やり手ババならぬやり手ジジって呼ぼうか今から」
「なにぃ? 俺のエリシアちゃんはまだ二歳だぞ! 孫の話はまだまだ先だ!」
「じゃあやり手親爺で」




 エドの見舞いに訪れたヒューズと共に病室に戻り、幸運にもジャネットが不在であったため魔術でエドを癒すことが出来た。――――ただ、脇腹の傷は完治させると怪しまれるため殆ど手をつけなかったので、退屈だし塞がってきた傷は痛痒くなるしでエドはたまらずに言った。
「なー、傷癒してくれよ」
「だめ。どうやって退院する算段だ? 傷は消えたから帰りますとか?」
「……なんでだよ……」
 周囲の予想以上にエドは気落ちし、小さく呟く。エドの身体を突き動かす衝動の大きさはに真摯に伝わり、今すぐ癒してアルと三人で次の旅に出かけて行きたい想いに駆られる。
「……いまは、だめ。一つ処でじっくり考える時間、時期だと思っておいてくれ」
 揺れる感情は容易く涙を誘うがどうにか自制して言い返し、そのままは病室を出て行った。

「――――やれやれ。お姫様も参ってるんだな」

 ヒューズの口調は軽いが、端的な事実にエドは我に返って言う。
「参ってるって……そうだよな、引っ張り回してばっかだったもんな……」
 力ない自分を悔いる態度に、アレックスは眉をひそめて言う。
「良い機会だ。己のこと、他人のことを考えてみるがよい。人が独りで事を成し得ることがどれだけ困難であるか」
「……」
 返事が出来ないエドを見やってアレックスはヒューズに声をかけて病室を出て行った。







 休憩から戻ったマリアとブロッシュ、そしてジャネットにヒューズは伝言を伝えた。

「お姫様のご機嫌を直しに外の空気を吸わせて来るから、帰りは遅いってよ」










 患者病棟を抜け人気の少ない棟まで来ると、気にならなかった自分の早足な足音や涙を堪える荒い呼吸がリノリウムの床に響いて。
「――っ――は――あ――」
 考えてしまえば、想ってしまえば、圧倒的なヒトの想念は瞬く間に自分の意識を支配してしまう。そして、奪われてしまえば依石に宿した精霊を制御することが出来なくなり、セントラルは原因不明の大水害に見舞われることになってしまう。
「あ――――ちくしょ……」
 現在抱える痛みを初めから持っていたそれと思い込み、痛みをありのまま受け入れることで感情の支配を取り戻して。歩みを止めて深く呼吸を吐いて。ようやくは手近な長椅子に腰をおろした。
(まいった……相当根が深い)
 やや傾き始めた陽が黄色身を帯びて白い壁と色の濃い影を創り出す廊下の、その闇に、身じろぎ一つしないアルの鎧の背中を見つけた。

「……アル?」
 声量は小さく、呟きに近いの声をアルは捉え、ゆっくりとに向き合った。

「……あれ? どう……したの? ないてるの?」
「堪えてるところ」
「何かあったの?」
「色々」
 陽の射す明るい廊下で翳を含んだ笑みを向けられ、アルは俯いたまま応えた。
「…………そう。そうだよね、もボク達と一緒に来てからちゃんと休んだ日って無いもんね」
「アルのせいでも、エドのせいでも無いよ……力が戻ってないから、面倒なだけ」
「それで泣いてたの?」
「……まあ、な」
 全く泣いてないわけではないので、は正直に答えた。

「…………あのね」
「うん」
「ボクは、ボクなのかなって」
「うん」
「この前の研究所で会った、ボクと同じ人に……変な事言われて」
「うん」
「ボクがボクじゃないって」
「うん」
「自分の事がわからなくなっちゃった」

 身体が、肉体があれば、否応無しに此所に在ると明確な証が、枷が有るのに。

「自分の拠り所が無いのは辛いな。まして、身体そのものが無いのは」
「…………兄さんに、言われたんだ。怖くて言えなかった事があるんだって」
 つぶやきはちいさく、必要以上の動作をすることは無いはずの鎧の身体と影が小刻みに震えた。
「――なんて、言われたんだ?」
 微かにかぶりを振り、アルは続けた。
「まだ、訊いてない。いつ言われるか、どんなことを言われるのか、怖くて仕方無い」
「いつもみたいに傍に居れば、何時エドが言い出すか解からんから外に居るのか」
「……うん。ねえ、は聞いてない?」
「いいや」
「そっか……」
「大事な話だよきっと。だから、アルだけに、二人だけのときに言うと思うな」
「うん……」
「今は忘れてるかもしれないけど」
「え」
「これだけドタバタしてりゃ無理も無いさ」
「そっか……」

「だってエドだし」

「…………ぷっ。兄さんが聞いたら怒るよ?」
「返り討ちにするさ。なあ、アレックス?」
「え……」

 音もなく、曲り廊下から巨躯の軍人が現れ、アルは微かに声を上げた。
「……内容は聴かせてもらってはいないがな」
「プライバシーは尊重するべきだろう?」
 それぞれの意味合いで苦笑を浮かべる二人を見やって、アルはようやく気付いた。
「あ……結界……」
「そゆこと。――で? 追いかけて来てくれたのか?」
「うむ。エドワード・エルリックの世話ばかりでは疲れてこよう。どこか、気晴らしに連れ出そうとと思ってな」
「なるほど。デエトのお誘いか」

「でっ、デート!?」
 大仰なアルのリアクションに、アレックスは素直に突っ込んだ。
「なぜ驚く」
「アルも一緒に行こう――いま、マリアに心話で伝えた」
「む」
「ええ?」

「そんなに時間は無いが、たまにはいいだろ?」

 頬笑んで覗き込む――埋めようの無い身長差は当然だが――の問いかけに、アレックスは肯定きで応えるしかなかった。













 のリクエストにより、最初に訪れたのは練兵場の一部にある室内型の訓練所だった。人払いをし、更にの結界により第三者がいない室内は、様々なトレーニング用の機器、スパーリング用のリングが使われるのをただ静かに待っていた。

「やっぱり体動かさないとな! ……ってなにこの機械? 訓練用なのか?」
「それは胸筋を鍛えるのに使うんだけど……あ、危ないよ」
 壁掛けのエキスパンダーの片方だけを掴んでばねを伸ばし、取り外そうとするの隣にアルが歩み寄った瞬間。残されたエキスパンダーの取手が掛かる取っ掛かりが外れてアルの頭を直撃した。
「わわっ!」
「ご、ごめん、大丈夫か?」
「う、うん。平気、びっくりしただけ……。でも気をつけてね、使い方は僕も識らないのあるし」
「…………うん、わかった。じゃ、これはやめて……あれって何だ?」
 レッグプレス、アブベンチ、バタフライ、ヒップアブダクターなどを次々に触り、筋力テストをするというよりももはや遊んでいるに、アルが一生懸命レクチャーをし、アレックスが実演する。
「ぬうううっ!」
「おー」
「うわぁ……」
 なかでも二百キロのベンチプレスは圧巻で、純粋なパワーに感嘆するに対しアルは暑苦しい筋肉がちょっと傷食気味になっていた。
 極限の集中力と一瞬の瞬発力を求められる行為の後のため、体中から汗を噴出してアレックスは笑顔で言った。
「鍛えればも我輩のように持てる様になるぞ」
「うーん、やってみたいけど筋肉いっぱいになるから止めとく。でもすごいな、脂肪の感触がない」
 自分にはない固い二の腕に触れ、は感心しきりに告げる。
「あいつも何気に筋肉あるけど、ここまではなかったかな」
「あいつ?」
「あ、私の相棒のこと。剣士だからね…………」
 語尾がかすかに小さくなって、はそれきり口をつぐんでしまった。『閉じた空間』から出してもらったタオルで汗を拭うアレックスの手も動きを緩めて。

「あ――、そうだ、組み手しようよ!」
「ああ、それが目的でここに入れてもらったんだよな。じゃ、やるか」

 アレックスに審判役を頼み、組み手を始める。ロープを使うと風に乗らずとも高い跳躍を得ることができ、リングという限定された足場で体捌きを普段のように行い思わず足を滑らせたアルの頸を踵下ろしで穫ったつもりだった。しかしリングに張られたロープに掴まる事で体勢を立て直す余裕を持てたアルは、空いた手で振り下ろされる踵を掴み、そのままをリングに放り投げた。
「――っんの!」
 辛うじて受身はとれたが設けたルールでリングに背をつけることができるのはあと一回。起き上がりざま低い位置からひざ狙いをフェイントにして伸びる手をよけて後方をとる。
「やばっ……」
 バックブリーカーを極めるつもりは毛頭なく、ただバランスを崩すように――――ロープの反動を利用して背中を蹴った。

 そのとき、腹部に忘れかけていた強いくせに鈍くて重い痛みが走った。

「っ…………、た、たんま……」
「ど、どうしたの?」
「む!?」
 マットに崩れ落ちるように横たわるの元に、アルとアレックスが駆け寄る。

「ぁあ……って……」

 突然蒼白になり、ただただ身体を縮こませ、痛みに耐えるにアレックスは素早く軍服の上衣を掛け、ロープの下をくぐるかたちで抱き上げてをリングから降ろした。

「大丈夫か?」
「んぅ……し、しばらくすれば……おさまる、から……あったかいのが、楽……」
「差し込みではないのか」
「似てる……けど……違う――っあ」
「なんだと?」
「だ、大丈夫?」

 時折の痙攣に似た震えと、堪えきれず漏れる声にアルもアレックスも慌てふためいて、特にアレックスは普段のとは全く異なり、小さくそしてか弱いと自覚させられる身体を横抱きにしていたためその狼狽ぶりはひどかった。

「しっかりしろ! すぐ病院に戻る」
「いや……」
「なぜだ!?」
「これ……魔力……不足だから、薬とか、効かない……」
「あ――」
「ではどうすればいい」
「とりあえず、腰……冷えてきたから、このまま、ソファにかけて……」

 願うままにを抱いたまま、アレックスはソファに腰を落ち着かせ、密着度が増しては苦痛にゆがめていた表情を少し和らげることができた。
「これで良いか」
「…………あ――うん、楽になってきたぁ……」
「何か、暖かい飲み物もらってこようか?」
「…………ココア、あったら嬉しい」
「ココアだね、ちょっと待ってて!」
 言ってアルは訓練所を飛び出し、手近な食堂へと駆け込んだ。





「すいませーん! ココア、ありますか?」
 突然やってきた可愛い声の鎧の大男に、残業食と夜食の下拵えをしていたおばちゃんたちは一斉に驚愕の目差しを向けた。
「あ、あのっ、僕の仲間……って言う女の人なんですけど、なんか急におなかが痛くなって、でも病気じゃなくって、それでココアが飲みたいって……」

 しどろもどろでどうにか状況を説明するアルを見、そして同僚を見合わせたおばちゃんたちは一様に頷いた。

「ちょっとおまち」
「あ、ありがとうございます!」

 同僚が持ち込んでいた小さな水筒を借り、そこに出来立てのココアを注ぎ、アルに手渡したおばちゃんは言った。
「腰は冷やしてないかい?」
「は、はい。アームストロング少佐がだっこしてあっためてくれてるから」
「そうかい。痛みが引かないようならちゃんと病院に行くんだよ」
「はいっ。じゃあの、これ、お借りします! あとでお返しにあがりますから!」


 アレックスの風評は当然おばちゃんたちの耳にも届いていて、そんなときに「だっこしてあっためてる」なんて状況を知ってしまったおばちゃんたちは、どう広めようかと画策するのに思わず下拵えの手を休みがちにしてしまうほど時間を割いた。 




 ――そんなことは露知らずのアルは駆け足でとアレックスの元に戻り、いまだ抱えられたままではあったがだいぶ痛みが引いたのか、笑顔をみせるに水筒のコップに程よい温度のココアを注いで差し出した。

「ん――、あったかい……しあわせ」
「痛いのどう? 落ち着いた?」
「うん。アレックスと、アルのおかげで殆ど引いた」
「そっかあ、良かった。急に痛くなるなんてことあるんだね」
「力が足りないと、身体のバランスも崩れるんだ」
「そうなんだ……」
「生理も来ないし」
「へぇ――――えええ!?」
「周期はきっちり決まってるほうだったんだけどね、今の痛いのも、来たかーと思ったけど違った」
「赤ちゃん、できたの?」
「――逆算するとこの世界に来る前にまあその……仕込みが要るけど、それはない」
「仕込みって……料理みたい」
「仕込み自体、未経験者ですから」
 
「…………なんだかなぁ」
「……恥じらいというのも時には阻害でしかないということさ」


 結局水筒に残ったココアを飲みきったはいつもの表情に戻り、アレックスの抱擁を優しく解いて立ち上がった。
「あ――――痛かった」
「もう良いのか」
「うん。腰が重い感じは少しあるけど平気。それに何時までもアレックスを上半身裸にするわけにもいかないだろ」
「我輩は気にせん」
「私が気にする」

 言っては借りていた上着を二つ折りにしてアレックスに差し出す。沈黙は僅かな空虚を生み出し、アルが突っ込みを入れる直前にアレックスはかすかな唸りとともに上着を受け取った。上着のボタンをしっかりと留めて立ち上がったアレックスはとアルに言った。

「中央に居るあいだに連れて行こうと思っていた場所がある。次はそこに行こう」
「どこ?」

「我輩――アームストロング家の侍医のもとに」

「……また診察台にあがれというのか」
 うんざり顔のに、アルは素直に問う。
「そんなに嫌なの?」
「……子宮はどこから診察する?」
「あ」
「大開脚して触診されてみる?」
「いえいえいえいえ結構です! ていうかボク男だし身体無いし!」
 必要以上に拒否するアルの態度を見たアレックスはに言う。
「無理強いはできるだけしたくはない。だが、今日の痛みが引かない事態がないとも限らん」

「――ああ」
「行ってくれるか?」


 この身体だけの問題なのか、魂の問題なのか。
 解は未だ得ていない。


「そうだな。いつでもアレックスが居てくれるわけじゃない。行こう」










 ――――結局、この世界の医療技術ではの身体の異変は解明できず、ホルモン注射も臨床実験程度のため試用を拒み、カウンセリングも正常反応を示すとなるとお手上げで。

「どうだった?」

「このままいくと妊娠しないってことらしい」

 医師の自宅で診察を受けたは、衣服を直して応接間で待っていたアレックスとアルに率直に言った。
「…………その前に結婚という儀式があると思うが」
 小さいころは結構風邪をひいていたようだが、アームストロング家の血筋が成長と共に頑健さを現し十を迎える前には健康優良児の判を捺されたアレックスは医師の夫人がと入れ違いに部屋を出て行ったのをいいことに、重厚なつくりのソファで自分の隣にを座らせて言った。

「――――もう、匿している事はないだろうな?」
「匿してはいないよ、推測ばかりで確証が無いところはあるけどな」
「そういう事も話して欲しいのだ。我輩にも出来ることと出来ないことはあるが、後見人となった以上……責任というものがある」
 そのまま、さらさらと流れるの髪を、頭を撫でる。
 アルもの側にひざ立ちになり、を覗き込むように言った。
「ねえ、ボクは身体が無くって、この鎧に間借りしてるだけだから――――身体の痛みは感じない。でもね、心はちゃんとある。出会ってまだちょっとだけど、のことを心配する気持ちが在るんだ。だから、ボクに、ボク達にできることがあったら頼って欲しい」
「…………うん」
「具合が悪いのは、見当がついてるんでしょ?」

 ゆっくりと、は頷き、その頭を撫でていたアレックスの手が止まった。

「この世界に喚ばれたときのショックで身体に影響が出ているか、この世界そのものが私を異物と見做し、魂と身体の関わりにズレが出ているか……たぶん、どちらかだ。身体だけなら、力が戻ればどうにでもできるが……魂となると出来るだけ早くもとの世界に還る必要がある」

 の言葉はまるで――――

「もし、魂が原因だったとして、結局もとの世界に戻れなかったら?」

「魂はいずれ身体から遊離するか、そのまま消える」

 ――――まるで、

「似た者同士ということかもな、アル」
「え……」

 自分のことみたいで。

「魔術師は精神、魂を扱う事に長けていると言っただろ。戒めがあるから自分の魂の状態は大して解らないが……お前さんの置かれている状況とさして変わりはない」

「そんな……」
「とはいっても本当にどっちなのか確定は出来無い。精霊と再契約して、それからさ」

「そ……そうだよね。ボクと一緒だなんて、そんなの……」

「アルフォンス・エルリックと同じとはどういうことだ?」

 それまで黙していたアレックスが急に言葉を挟み、混乱から少し立ち直ったアルはゆっくりと告げた。

「ボクの……この身体は……永久に動くわけじゃないんです。血印が風化してしまえばそこで終わりです」
「なんと」
「この鎧だってそれほど製鐵された鋼じゃないですから、腐食でも同じことです」
「……別の物質に、同じように移動、移植することはできんのか」
「ボクの魂の錬成を行えるのは兄さんだけです。今度やったら……」
「どんな対価を支払うか判らないな。下手すりゃ全部持っていかれる」
「むう」
「だから、ボク達は……賢者の石を探して、元の身体に戻ろうって……。兄さんも、それは判ってるから」

 沈黙が三人を支配し、想いだけが駆け巡り、空回りする。アレックスは何の気も無く、ただこの場で習慣づいたの頭を撫でる行為を再開した。大きな手で優しく撫でられる感触は今までに数えるほどしか知らず、そのためにある事実に気がついた。

「いま気がついたんだけど、触れられると欠けている力――魔力が少しずつだけど、補填されるみたいだ」
「……接触によって、回復するというのか?」
「……もうちょっと、続けて」
「うむ」
 よほど心地良いのか、瞳を閉じてうっとりとするはゆっくりと口を開いた。
「ああ――齟齬で生まれた空白は……この世界の生命に……触れる事によって……埋るようだ……」
「そうか。見た目はなんら変化は無いようだが」
「ん……まあな、元々視えない類のちから……――――」
「どうした?」
?」

 アレックスとアルの声にも応えることなく、そのままは昏倒した。














 ――――とおい、ゆめを。









 ――――――――もう――――――――――――くりかえさない。






 


「……」

 こえ、が。

「…………ッ」

 こんなに叫んでるのに声が出ない。
 封じられたみたいに。

(なんでもいい早くしないとあいつが)
(空を統べ大気に満ちた風よ命の源たる水よすべてを育む大地よ)
(いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ)







 ――――みた。












 魔術での治療を内臓器官に集中させたため、エドの食事はごく一般的な病院食で問題無いので、栄養学に基づいた食事が配膳される。成長期のため何もせずとも空腹中枢が決まった時間に働いて、そこそこの味で暖かなクリームシチューとコーンいっぱいのポテトサラダと魚のフライとカットオレンジは、まあ普通に食べてしまうだろう。
「…………ちゃんと食べてね」
「……ああ。そうなんだけどよ」
が作ってないのが嫌なのは分かるけどさ」
「それもあるけど」

 夕食をぼんやりと見下ろすエドに、同じメニューをつつくマリアとブロッシュは異口同音に告げた。

「怪我人置いてアルフォンス君も一緒にデートに行ったのは息抜きって事で」
「そっちじゃねえ……!」
「じゃあどうしたのよ」
「……おっさんさあ、なんであんなに世話焼いてくれるのかな」

 投げられた疑問は真意とは違っていても、二人を思考の海に放り出すのに充分で。

「アームストロング少佐? それは……」
「改めて考えると……」

「やっぱ、のこと好きなのかな」
「……」
「かもしれないね、料理は美味いし、美人だし、口は悪いけど性格良いし」
「そうねぇ」
「少佐のご家族とあったとき、すごい受け良かったって聞いてるし」
「度胸もあるわね」
「妹さん……キャスリンさんだっけ、わざわざ迎えに来てたし」
「――――」
「元の世界にどうしても戻れない時は、迎え入れるかもな」

「…………その方が……いいのかな」

「え?」

「――あいつの目的がどうしても果たせない時は、おっさんのとこで生活した方が良いのかなって」
「それはエドワード君が決めることじゃないでしょ」
「――まあな」
「つまりあれだ。嫌なんだろ? そうなっちゃうのが」
「……」
「好き……かは知らないけど、一緒に旅をしたいのね」

 無言で頷くエドの仕草にマリアは頬笑みを抑えることが出来ず、エドは唇を尖らせてぼやいた。

「だから早く治してーんだよ。ったく。人の気もしらねぇで……」







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