不気味なほど静まり返った夜のセントラルの街で、ヒューズは本部からすぐにある公園の公衆電話の受話器を上げた。震えだした指でダイアルすると、ほどなく通信室と回線が開いた。
「――はい。東方司令部」
「ロイ……マスタング大佐につないでくれ!」
「外部からの電話はつなげない決まりになっておりまして……」
「中央のヒューズ中佐だ!! 緊急で外からかけてる!!」
「コードをおねがいします」
焦るヒューズはコードをど忘れして手帳を広げて叫んだ。
「ああもう面倒くせェ!! アンクル、シュガー、オリバー、エイト、ゼロ、ゼロ!!」
「コード確認しました。しばらくお待ちください」
「早くしろ! 軍がヤベェ!!」
広げた手帳から家族の写真が落ちるのも気付かず、荒く鋪装された地に砂を食む足音と、
「受話器を置いていただけますか、中佐」
落ち着いたアルトが穏やかでない言葉を紡ぎ、良く知った顔がグロッグの銃口を自分に向いていることを振り返ってようやく理解した。
「さあ、受話器を」
彼女は淡々とヒューズに告げ、不審があれば発砲する気配を匂わせていた。
「ロス少尉……じゃねえな。誰だ、あんた」
用を済ませトイレから出た瞬間、それの使用を感知した。
「――っ!」
一足飛びに通路の窓から車両の屋根へと昇り、屋根伝いに最後尾のデッキに降りてドアにだけ結界を張ると彼らを喚んだ。
<<ワイズ!>>
<<大丈夫。流れは保たせた!>>
<<ダイト!!>>
<<地べたに寝てるのが幸いした――問題ない>>
<<ステアっ!>>
<<心配ない。護りは既にある>>
ちいさく息を吐いたはすぐに意識を変えて。
<<足取りは追えるか?>>
<<期待はするな。そなたの居ない地だ>>
<<……わかってる。だが、頼む>>
ステアの応えを待たずに――――アレックスを呼ぶ。
<アレックス…………やられた。広場……公園にヒューズが居る。急いでくれ>
返る感情は驚愕と憤慨と。
「……っあ」
受けた痛みは身体か心か。手すりを掴みやり過ごすと、かすかな応えがきた。
<なんと……場所はわかるか?>
<――いま、わかった。会議所から南の……すぐ近くの公園>
<了解した>
深く息をつくと精霊が視せてくれるヒューズの姿がそばに在って。寄せられた眉根にかすかな涙と、路面を濡らす赤黒い液体。ぎりぎりで繋ぐ命はあまりにも弱く。あとひと押しで幽玄と消え行くのは手に取るようにわかった。
「……もう……いい。視せる分も、維持にまわせ……」
言った言葉が違うことに気付き、精霊言語で改めて彼らに命ずると幻はすぐに消えた。
ドアに背中を預け、そのまま膝を抱える。
(まったく……たった一日じゃないか。いっそ清々しい攻撃性だ)
危険分子と認識して排除を実行する。ごく小さな組織なら一日も可能だろうが、この行動の速さは異常すぎた。
(命令系統の統制が風よりも疾い――王宮の特務機関でも不可能だ)
「ああ――ここは、電話があるんだよな。そりゃ早いか」
呟いて座席に置き去りにした煙草を魔術で転移させて火を点ける。夜の山を抜ける汽車は南方に向かってはいても風は冷たく、精霊の護りをヒューズだけに注いでいるため、指先から冷たさがを支配する。かじかんだ指は不快だしすぐに煙草は短くなったが、頭を冷やすには好都合だった。
(問題は、どこから情報が漏れたかだ)
自分との会話なら結界で防いでいるから盗聴の危険は皆無だが、それ以外の行動、言動は自由意志に頼っていて、ヒューズもアレックスも抜け目の無い人物で、不用意な所作は。
(仕事そのものが情報収集と記録保存……まさか)
傷の男は単独犯だとアレックスもヒューズも考えているといった。となると――
(闇の者か。成程。あれだけの命を持つ者…………過去から何らかの関与があっても不思議じゃない。問題は行動を把握できたとしてもそんなに緻密にできるのか? 監視している? どうやって? 内通者が……?)
自分たちと彼らを繋ぎ、そして内通できる可能性があるのは。
「んな莫迦な」
殆ど吸えずにフィルタまで達した煙草を魔術で消して、二本目に火を点ける。
然し辻褄は合う。では、頭か、駒か?
(――――駄目だ。頭にしては仮定とする目的が弱い。駒にしても理由がわからない……)
虚偽の脅迫状がタイミングよく軍に届いて護衛が配備されて、だしにされた組織が腹いせの報復としても。そうできるだけの根拠が無い。
二本目の煙草も風に燃やし尽くされ、フィルタだけが残ってもは思考を続けて。しびれて脚の感覚が失くなったことにようやく気付いたのは、月が二つ分動いてからだった。苦笑を浮かべて痺れを癒し、アレックスに呼び掛ける。
<アレックス>
<……処置は今しがた終えたところだ。だが予断は許さん>
<そうか。……ありがとう>
<礼を言うのはこちらだ。……よく、保たせてくれた>
<そのための護りだよ。できれば、使わせたくなかったけどな>
アレックスの声は返らなかった。彼のショックも大きく、心話も相当の負担になっているのだろう。――しかし、はそれ以上の負担を強いられていた。刻一刻と距離を置いてゆく、遠距離での複数の精霊使役は栓の抜けた湖のようにの魔力と体力を奪って。三本目の煙草を手にする腕を上げるのも億劫になっていた。
肌を刺す途切れることの無い強風に、この程度でここまで弱る不甲斐無さに苛立つ。
(…………本当、悔しいなぁ)
本来の自分なら、この程度の距離、一息で飛べるし、護りだってもっと早くに発動できる条件を埋め込めたのに。
――――すぐにヒューズも癒せたのに。
「……ちくしょぉ……」
駄目だ、泣くな。ここで制御を誤る訳にはいかない。気を抜くのはずっと先。声も出すな。出すと泣く。
「…………っ……ぅ……」
耐えろ。耐えろ。魔術師ならこの痛みはなんでもない。なんでもない。
<<、落ち着いたから、もういいよ>>
ワイズの優しい声が痛みを和らげ、は顔をあげてまた月が動いたことを知った。
「あ……」
<<大丈夫。後はぼくら自身で少し調整すればいいだけだから。もう、そんなに頑張らなくていいよ>>
<<……わかった……ありがとう>>
使役を普段の系統に戻すと、血が一気に身体を駆け巡っているのか目眩いがした。
「うわ、きつ……」
<<ああもう身体冷え切ってるじゃない。駄目だよ>>
<<あ……うん>>
少々乱暴な、でも暖かな水霊ワイズのちからが身体をめぐり、心地良さに目を瞑る。風霊ステアもそばに在る事を知り、ダイトだけがヒューズの傍らに在る事を感じた。
<<本当、無理しすぎ>>
<<ごめん>>
<<自らの犠牲を過分にしやすいとは思っていたが、ここまでとはな>>
<<……反省してます>>
<<名を明かしたからこその働きもある。少々のことは我らに任せておけ>>
<<……頼む>>
<<あの地には闇の者の残滓があった。だが、足取りは掴めなんだ。人の在る所に紛れてこれ以上は探れなかった>>
<<……そうか。ありがとう>>
<<やはりそなたが居らぬ地は手薄になる>>
<<仕方無いさ。――でも、これではっきりした。次に遭ったときは殺す>>
<<…………我を感情に引きずるでないぞ、魔術師>>
<<わかってるよ>>
風の膜で自らに護りをつけ、は再びアレックスに呼びかけた。
<丁度いい。ICUへの移動も終わった。……あとは回復を待つばかりだ>
<そっか……よかった……>
<そなたは……つらくないか>
<正直きつい。いや、きつかった>
<……ほんとうに……よく、保たせてくれた……すまぬ……>
<ううん、もっと何とかなったはずなんだ。あ、護りはあるか? あったらヒューズのそば……いや、直接肌に触れさせておいて欲しい>
<では、我輩の分を使おう。……中佐のものは粉々になっておった>
<……ごめん>
<何を言うか。そなたの働きで中佐は助かったのだし、ここから先は部下である我輩の役目である>
<…………わかった。頼む>
気が抜けて言葉が繋がらずにいると、アレックスの悔いる感情が強くなって。
<我輩の腕の中で眠ればその辛さを軽減できように>
<……そういやあアレックスとの心話は疲れないな。逆にあったかくて、楽になる>
<ひとの想いとはなんとも不思議だ。離れていることがこれほど酷だとは思わなんだ。そなたの居らぬ事実が……>
思惟をじかに感じては照れくさくなり、聞こえることの無い咳払いをひとつする。
<……あー、その、なんだ、アレックスと一緒に居れば楽なのは解ってるんだよ>
<全身全霊をかけて応えようぞ>
<でも今は駄目だ。依存はしたくないし、その資格も無い>
<――――やはり情の強い女子だな、そなたは>
<私は私だよ。どの世界でもな>
<不思議なものだ。まるですぐそばにそなたが居るような気がする>
<精神的にお互いを近く感じるのが心話だ。……ふむ。精神におけるつながりでもパスが通るのか>
<直接でなくとも良いということか>
<そうらしい……アレックスは辛くないか? 結構な時間が経っている>
<我輩は問題ない。むしろ心地良いぞ>
(魔術の適合性が高いのか。でなければ普通の人間にはこの長時間の心話も耐えられまい)
<成程。パスが通っている間は増幅効果があるということか……よし。ヒューズの元へ行けるか?>
<――む。奥方がマリア・ロス少尉と共に来た>
<丁度良い。一緒にヒューズのところへ。このまま維持できるな?>
<問題ない>
気丈に振舞うグレイシアを連れたマリアとともにアレックスはICUに入り、改めてヒューズの状態を見た。
いたる処にチューブが生え、酸素マスクの向こうにはかさついた唇を覆うテープとかすかに開いた口端から舌で気道を窒がぬ様にバキュームの管がのびて。
「あなた……」
グレイシアはそっと夫の頬をなぜた。ぞっとする冷たさに指がこわばるが、蛍光灯の光より白い面差しでもかすかにまぶたが動くことを知り、安堵とともに涙が頬を伝い落ちた。
発射された弾丸は螺旋状にヒューズの内臓を引き裂き、通り抜けて。片肺も半分死にかけていたという。肩の傷は鋭利な刃物というよりは槍のようなもので傷ついたらしいと言っていた。
強心剤にブドウ糖に抗生物質数種の点滴が葡萄のように掲げられ、両腕の注射針がささる箇所は鬱血していた。
<……どうするのだ>
<ヒューズに触れることはできるか? アレックスを介して力を送ってみる>
<承知した>
グレイシアの反対側に巡り、アレックスは大きな手をヒューズの肩に置いた。
「アームストロング少佐……? なにを……」
マリアの声には応えず、アレックスはに伝える。
<良いぞ>
<<――――安らぎを与える夜よ、命を抱く大地よ、彼の者に大いなる恵みを分け与えよ……!>>
「む……!」
途端、全身を途方も無い何かが通り抜け、肩に触れる手のひらに、指先にそれが凝縮していくのが解った。
<<エステリアの防人よ、幽玄にならんとする彼の者を阻め、追い返せ……!>>
――――己の手から放たれた鮮やかなオレンジのひかりがヒューズを包み、白熱となる――――
「ぬ……ぐ……!」
「少佐!?」
輝きに顔をしかめ唸るアレックスにマリアが近づくと、嘘のように光は収まり、手のひらの不可解な感触も失せていた。
「だ……大丈夫ですか?」
「……心配ご無用」
不安げに見つめるグレイシアとマリアに、アレックスは一呼吸置いて告げた。
「の手伝いをしただけです」
「え、?」
「だって今頃は」
「そのための手伝いです」
グレイシアとマリアは顔を見合わせ、お互いの目が真ん丸なことに気がついて、再びアレックスを見た。
「今、ただ肩に手を置いただけですよね?」
「……私も、それだけだと……」
「それで良いのです。ご覧ください、中佐の顔に赤みがさしております」
「……あ……ほんと……」
「じゃ、じゃあ今ので?」
「我輩にも解りませんが、かなり回復しやすくなったと思われます……失礼」
<上手く行ったようだな?>
<うん。きっかけはできた。あとはアレックスの護りでなんとかできる。一気には癒せないけど……護りだけの時よりずっとやりやすかった>
<それは……>
<同じ世界の人間が触れる、ってのは結構大事なことなんだぞ>
<では奥方に同じ事はできぬか>
<私とのパスがこれだけ確保出来ているのはアレックスだけなんだ……奥方が魔術に耐えられるかも解らないし>
<わかった。事情を説明し、調書作成などに入るゆえ、時間をくれるか>
<あ、うん。もう大丈夫。また明日にでもするよ>
<承知した>
<ありがとう。助かった>
「……少佐?」
「失礼しました。と話をしておりましたゆえ」
「どうやって……あ、あれね」
「はい。助けが遅れたと侘びを申しておりました」
「いいえ。その逆よ。助けてくれてありがとうって伝えて頂戴」
「……我輩もそのように申し付けました。すべてを抱えるなとも」
「――――この人も、同じ事を言っていたわ。起きたらきっと怒るでしょうね」
「――――ぁつ――――うっ……ぐ……!!」
(しまっ……やり、すぎ……)
下腹部を貫き、えぐる熱、否、氷の刃。螺旋状のソレが身体の中でぎちぎちと肉を裂く。
走行音で声は風に掻き消えるが、声そのものが激痛で出せずにデッキでのたうち、手のひらに爪をつきたてる。
(癒すことだけにすればよかった、かな……)
魂そのものを扱う魔術はほとんどが禁呪として制限される中、数少ない使用を認められるうちのひとつ、反遊離。
実際に使用したのはこれが二度目であり、負担のかかる魔術だとも判っていた。アレックスとのパスを確認してすぐに使用するようなレベルではないことも。
「っが……あ……! は――――」
それでも、使いたかった。何とか出来るなら、何とかしたかった。
(でもこれまずいやばい)
アレックスとの心話、パスが切れた途端、これだけの痛みが来るということはリバウンドが起きているということで。
「い……いた……」
苦痛が涙を誘い、視界がたやすく滲むと後は頬を伝うばかりで。泣くことで気が緩んでしまう。
「ち……く……しょ……ぁ、ぐ……」
空に伸びる手。何もつかめないと解っていても、自然に求めて勝手に動いた。
「――ぅ、ぅ……っ――――」
いっそ気絶できれば楽なほど、緩急を以って痛みが下腹部にはしる。不快な脂汗が全身から噴き出て、身体が冷えないようにだけ使役を集中したとき。
「!! 何やってんだこの馬鹿!!」
「……エ、ド」
紅いコートを着て、エドがデッキのドアを開けて立っていた。
「どう……して」
「トイレ行ってから全然戻ってこねえと思って、アルが俺を起こしたんだよ。ウィンリィ寝かせてるし」
「そう……か……っ」
「機関室でも覗いてんのかと思って行ってもいねえし恥ずかしいけどトイレも全部巡ってもいねーしなにやってんだよ。ていうかなんでこんなとこで寝てんだよ」
「ちょっと……気分転換て言うか」
「うそつけ!!」
怒鳴りながらエドはの手を掴んで言う。
「ほら戻るぞ!」
「あ――――」
勢いに任せて立ち上がったとたんに痛みがぶり返し、はエドにしがみついた。
「……な、ななな!?」
「す、まん……ちょっと、痛い……っ」
「え、オレそんなに強く掴んだ!?」
「そっち、じゃ、なく、て……う、あ、あぁ……!!」
つかめるもの、すがれるものなら何でも良かった。この世界の生き物に触れられれば。
「おい、大丈夫かよ?」
「っあ――な、何とか……もう、ちょっとだけ……」
息が荒いのはすぐに感じて。肩はコートでわからなかったが、頬と頬が触れたとき冷たい汗と――涙。
「お前……」
「ほんと、ごめん……でも、もうちょっとだけ……このままで……いさせて欲しい……」
落ち着いて聞けば泣いている声で。
「…………しょうがねぇな」
大袈裟にため息をひとつして、開け放しだったドアを閉めたエドはそっとを抱きしめ、赤子をあやすように肩を一定のリズムで叩いた。
十分ほどそうしていると、風の影響がずっと少ないことに気づいて、エドは手を止めてあたりを見回した。
「……なあ、風があんまり来ないと思わないか?」
「ああ、風霊の護りがあるから」
「あ、そっか。便利だなあ」
「――ありがとう。もう大丈夫だよ」
「……おう」
身体が離れ、顔をあげたはいつものだった。
「あのさ、何でこんなところに居たんだよ」
「夜景が見たくなってきたんだ。そしたら差し込みというか急に痛くなった」
「……トイレ行けよ」
「いやもう収まった。胃でも痛かったのかな」
「……医者行くか。次の駅で降りて」
「大丈夫だよ」
「痛くて泣いてたじゃねえか」
「……まあ、正直魔力不足なんだよ。それで痛くなった」
「え……」
「んで、解消方法としてこの世界の人間に触れること。それで世界から魔力の供給バランスを保てる」
「…………随分簡単なんだな」
「――まあ、あんまりきついから粘膜接触が必要かなーとも思ったんだが、な」
「ね……」
瞬間湯沸しが如くエドの顔が赤くなるのを見て、笑いをこらえるのは無理だった。
軍内部の治療施設のためグレイシアは帰宅し、家族の扱いをマリアにすべて任せたアレックスが会議所の別のオフィスで現場検証をあらかた終えたと報告を受けていると、根城のオフィスからシェスカが血相を変えてやってきた。
「あ、あのっ、お電話です!」
「誰だ」
「はい、東方司令部のマスタング大佐です! 交換手待ちにしてます!」
「わかった」
人払いを命じ、アレックスは交換手を経て電話に出た。
「アレックス・ルイ・アームストロングであります」
「ヒューズはどうした!!」
「は。重傷ではありますが、峠は越えております」
「…………そうか……」
「はい」
電話越しに無遠慮なため息が漏れたあと、マスタング大佐の低い声が流れた。
「……奴は私と連絡を取ろうとして、わざわざ外に出た」
「左様で」
「通信室を介さずに、連絡をな」
「はい」
「……第一発見者は君だと聞いたが、何故わかった?」
「虫の知らせとしか言いようが無いですな」
「なるほど。虫の知らせでわざわざ外へ?」
「我輩は鼻が利きまして、帰宅のため表へ出たとき……血の匂いがしたような気がしましたので」
「ふむ。確かにこちらに来ている情報でも君は交代のためあの時間にオフィスを出ているな」
「直感は信じるべきと、戦場で身に染みておりますゆえ……急いだところ、中佐を発見いたしました。通信は……」
「ああ。呼びかけるうちに何者かに切られた――そうか。わかった。ありがとう」
「いえ。事件は特務機関に委ねられる事になり、現場検証は終えましたが、数日はそのまま保存いたします」
「承知したよ。見舞いも兼ねて休暇を取る」
「お待ちしております」
受話器を置くと粘ついた闇が僅かに薄れゆく空が見えた。夜明けまで二時間といったところか。
(命令系統の再構築があるまでは現状となるか……)
これからの幕僚会議でどこまで変化するのか予想がつかない。アレックスは意を決して受話器を取った。
「、大丈夫? すっごく眠そうだよ」
「うー……うん。もちょっと寝たいかも」
「寝れなかったの?」
「たまにあるんだ、こういう時。やばかったらウィンリィに膝枕お願いしよう」
「あはは、いいわよ」
「エドとアルには悪いが借りるぞ」
「んでだよ」
「別にこいつらに断らなくっていいわよ」
「なんでまた急に師匠の所へ行こうなんて思ったの?」
「理由はふたつ。……ここどうにも負けっぱなしでよ。とにかく強くなりたいと思ったのがひとつ」
「はあ? ケンカに強くなりたくて行くの? あんたらケンカ馬鹿?」
「ばっきゃろー! そんな単純なもんじゃねぇや!! なんて言うかこう……ケンカだけじゃなくて中身もって言うか……なあ!」
「そうそう!」
「オレはもっともっと強くなりたい!」
「うん! とにかく師匠の所に行けば何か強くなる気がする!」
「…………ふたつめは?」
「人体錬成について師匠に訊く事!」
「ボクら師匠の元で修行したって言っても、賢者の石や人体の錬成については教えてもらってないんだよね」
「ふむ? ではそこは全て独学だったのか」
「そう。賢者の石が色々とぶっそうな事になってるからさ、ここは思いきってストレートに元の身体に戻る方法を訊いてみようかと思ってんだ」
「成程。原点に還るか」
「なりふり構ってらんねーや。師匠にぶっ殺される覚悟で訊いて……訊いて――――」
簡潔かつ短絡な未来予想図が確定したことを理解して。
「短い人生だったなぁアル〜〜〜〜」
「一度でいいから彼女が欲しかったよ兄さん……!!」
「おーい……」
「師の話はいつも過敏になるようだが……それほどのものなのか?」
怪訝な表情のに、ウィンリィは苦い顔を見せて言う。
「うーん。修行から帰ってきた時も訊いた途端、ものすごく怯えだしたから、可哀想でちゃんとは聞いてないの」
「……そんなに?」
「エドは円形脱毛症になりかけて、アルは夜中にうなされることが増えたわ……」
「――――見事なトラウマ……つかPTSDなんだな」
いつもなら復帰するところでも沈んだままの兄弟に、ウィンリィは名案を思いついた。
「あ、そうだ。元気の出るもの!」
「?」
「じゃーん。アップルパイだよー」
「お、うまそー。どうしたんだ、これ」
「『途中で食べなさい』ってグレイシアさんが作ってくれたの」
「それにしても多いな」
「あはは、四人分だからね」
「ボクの分も食べなよね兄さん」
「う。病院での仕返しか! てめ、このやろ!」
「と一緒に作り方教わったから、元に戻ったらアルに作ってあげるよ」
「やた――!」
八等分にカットされたアップルパイのピースをかじり、エドはしみじみという。
「こういうのもお袋の味っていうのかねぇ……」
「兄さんじじむさい」
「お菓子作りはすごく勉強になったよ。養母はお菓子が苦手分野で余り作らなかったから」
「へぇ、お料理上手なんでしょ?」
「……まあ、甘いものが苦手で、子供には受けが悪かったせいもある」
トランクを隠れ蓑に『閉じた空間』から紅茶一式を出し、ワイズに提供してもらった水をアルの錬金術で沸かして茶を淹れる。車両に満ちる芳醇な香りに、居合わせた婦人が使った茶葉を聞きに来たり。
ウィンリィも頑張ったが早々に白旗を揚げたを尻目に、最後の一切れを口にしようとしたエドの視線が。
座席越しに見つめる十ほどの子供二人に向かい、それとたしなめる母親の声に気付いて。
「……」
「わー!」
「おにいちゃんありがとう!」
座席越しに二等分にされたアップルパイを受け取る子供たちと、何度も小さく会釈する母親に、苦笑を浮かべつつも自分の過去が重なるのは止められなかった。
「エド?」
「……食い過ぎた……」
不意に湧き上がる郷愁を誤魔化せば、気付いたらしいが苦笑して言う。
「いっぱい食べて大きくなれ」
「うっせ」
「美味しかったね。本当、色々お世話になっちゃった」
「ラッシュバレーに着いたら手紙でも出そうか」
「それいいね。ヒューズさんも、グレイシアさんもすごくいい人だった。エリシアちゃんも本当の妹みたいだったし」
「そうだね」
「ヒューズ中佐って親馬鹿で世話焼きでうっとーしいんだよなー」
「ははは。いっつも病室に兄さんをからかいに来てたよね」
「ほんとに……毎日仕事で忙しいって言いながらしょっちゅう見舞いに来やがんの」
軽口を叩くエドの表情に胸が痛くなる。
「――今度、中央に行ったら何か礼しなきゃな……」
真実は、まだ、先を行かんとする者には伝えたく無い。
――――資料室――――廊下――――通信室――――公園の電話ボックス。
ロイ・マスタング大佐はアレックスとの会話の後、可能な限りの仕事を片付け、可能な限り仕事を押し付け、日頃の不精が祟ってその日の特急は逃したが、午後の便で副官のリザ・ホークアイ中尉を伴って事件発生から三日経った今日、中央に来ていた。
当日のヒューズの言動。行動。結果。
ロイの知るヒューズの行動とは異なる部分が多く、意図はまだつかめない。
(東方司令部の電話交換手は軍がやばいというヒューズの言葉を聞いている……)
拭い切れない血痕がこびりついた電話ボックスの中。推測される出血量は致命傷を導き出した。
だが、ヒューズは生き延びた。意識も回復する見込みさえ持って。
(なんだ……? 奴は何を伝えようとしていた? 軍が崩壊するような事態が進んでいるとでも――)
面会時間になって真っ先に病室に行き、怪我をして起きない父親を案じつつも病室に飽き始めたエリシアに、絵本を読んで聞かせるホークアイ中尉を視界の隅に捉えながら、親友の顔を見た。
外傷を考えればかなりましになっていると知れる血色と、確実に上下する胸は、自力での生命維持が確立出来ている証で。
…………銃弾を受けた身で、生き延びたのは正に奇跡で。
眠る彼の手首には見慣れぬ水晶のブレスレット。ヒューズの趣味とは思えなかった。
奥方に尋ねてもお守りです、といわれれば追求も出来ず、クリスタルを護符とするまじないはロイも知っていて。
ただ事実だけがロイを置き去りにしようとする現実がどうにも許せずにいた。
公園を離れ、待ち合わせた路地で思案していると、ホークアイ中尉がアレックスを連れて戻ってきた。
「御無沙汰しております」
「無意味な挨拶は要らん。犯人の目星は?」
「襲撃したと思われる者達の目星はついております」
「ならば何故さっさと捕らえない!!」
「目星はついておりますが、どこの誰かもわからぬのです」
「? どういう事だ。詳しく話せ」
「できません」
「大佐である私が『話せ』と言っているのだ。上官に逆らうというのか!」
「話せません」
「……わかった。もう問わん。だが――――少佐が匿う女性がいるな。彼女は無関係か?」
「それも……話せません」
「――――呼び出して悪かったな。もう行っていいぞ」
「はっ」
きびすを返したアレックスは、足を止めて思い出したように言った。
「そういえば我輩、言い忘れておりましたが……数日前までエルリック兄弟が滞在しておりましたな」
「エルリック兄弟が?」
「そう。エルリック兄弟です」
「彼らの探し物は見つかったのかね?」
「いいえ、なにしろその探し物は伝説級の代物ですので」
「そうか――ありがとう」
「それと……我輩を後見人とする・は記憶は無くとも術の知識は深いので、記憶を取り戻すために彼らの旅に同行しておりますが、快方に向かうことが無ければじきに戻るでしょう」
「では、いずれは会えるな。青のドレスが良く似合うと聞いているから準備しておこう」
タイミングの良すぎる辞令。入れ替われ、ということなのか、自らの実力か。
踊らされている振りをするのは苦痛ではない。
――――いずれ、同じ舞台に引きずり出すことに変わりは無いのだから。
かぜ、の。におい。
乾いた懐かしい今はもう亡い風と人と家と記憶と名前と想い身体に刻まれたのは銃創と灼けた傷と憎しみ哀しみ。
――――喚んで、いる。
だれを。なにを。
(何故……哭く)
すべて――――た、――――であるというのに。――――よ。
(何が……だと?)
これは、じぶんの、ものでは、ない。
白皙も褐色もなくひとつの国で。
掲げられた――――
「――――!!」
急激に回復した視界に映るのはぼろきれを寄せ集めて出来た天井だった。
「あ、起きた」
わずかに声のした方を向くと、少年が洗面器に布をかけて入ってきたのが見えた。
「……生きてる」
「うん。生き返ると思わなかった」
「ここはどこだ」
「イーストシティの外れにある貧民街だよ」
「……己れは助けられたのか」
「おお、感謝してくれよ。びっくりしたぞー、下水道を人間が流れて来んだもんな」
「…………」
あらためて室内を見れば、掘っ立て小屋、確かに貧民窟であると知れた。
「こんなビンボーなのに人を助けてる余裕があるのかって?」
自分の側に腰を下ろす少年が布を絞りながら言を継ぐ。
「そーだな、おっちゃんが普通の奴だったら身ぐるみはいで、そのまま下水道にポイだ」
「――」
「おっちゃんイシュヴァール人だろ。オレも母ちゃんがイシュヴァール人なんだ!」
なるほど確かに少年の目は赤いし肌も褐色で、同じ血が流れていると疑いの余地はなかった。
「じっちゃ! 生き返ったぞ!!」
生き延びた事実は神の思し召しか、殺した分だけ生き延びろということか。
――――ただ、壊しても死ななかった者達から無我夢中で逃げたとき、水がやけに近くに在った気が、した。
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