「う、産まれるっ!?」
「孫が出る、孫がッッ!!」



「……落ち着いて頂戴、みんな」

 慌てふためくレコルト一家とエドたちのなか、大きく息をつく母たるサテラと、

「……ふむ。痛みは引いたが――――まだ始まったばかりだな」

 彼女を支えながら脈を取るが小さく言い、顔を上げてリドルに言う。
「今のうちにベッドの用意を、腰あたりはタオルを多めに敷いておいて欲しい」
「あ、ああ。わかった」
 リドルの動きにドミニクが立ち直る。
「ああ、いかん、この雨だが医者を呼んでこよう。そう時間はかからんはずだ」
「頼む、親父」
「うむ」
 雨具を着込んで家を出て行くドミニクにタオルを抱えるリドルが言う。

「うぁ、びっくりした……」
「でもこれでお医者さんが来てくれれば大丈夫だよね」
「ああ、うちの馬は早いから」

 ベッドメイクを終えてサテラを寝かせると、頼みの綱のドミニクが医者とともに戻るのを待つばかり――――の、はずだった。

 勢い良く開け放たれるドアと、出て行ったばかりの驚愕の面差しのドミニクが戻るまで。

「橋が……」

 その一言でエドとアル、そしてとウィンリィが飛び出していく。





 轟、と濁流が暴れるゴードの河に、数時間前に渡ったばかりのつり橋が煤けて、千切れている。水蒸気の塊の中で空気との摩擦によって生まれたエネルギーの逃げ場が、帯電質を通じてつり橋を玄焦げにしていた。

「くそ……よりによってこんなときに……!!」
 感情に任せてエドがつり橋だった木の棒を殴る。馬を伴うドミニクが静かに言う。
「遠回りになるが、山ひとつ越えればふもとに行ける。それまで何とかするしか無ぇな」
「いや! まだ手はある!」

 言うが早いか、エドは両の手を合せて地に手をつけた。そして、振動とともに土が向こう岸へと伸びて行く。
「そうか、橋を……!」
「いっけえ――――!!」
 願うようにエドが叫ぶ。だが。

 伸び行く土の半ばから、急ごしらえの橋は瓦解し、土が激流に飲まれていった。

「ど……どうして?」
 国家錬金術師になってから初めての、エドの失敗を目の当たりにしたウィンリィは震える声で言う。
「……自重を支えきれなかった」
「質量保存の法則に耐え切れなかったんだ……じゃあ、橋脚つきは?」
 アルが地面に図を描きながら代替案を述べるが、エドはかぶりを振った。
「下は濁流の河。流れに飲まれちまうし、それだけの質量の橋を錬成しようにも、今度はこっちの足場がやばい」
「手詰まり……ってこと」

 肯定の言葉をエドがこぼしかけたとき、信じたくない声が聞こえた。

「秘密厳守を願ってもいいかな、ドミニクさん」
「へ……そりゃ、どういう意味だ、嬢」
「まあ、これからする事に対してだ。余り人目に触れたくない行為に及ぶのでな」
 苦笑するに、エドは叫ぶ。
、止めろ!!」
 エドの言葉にアルも、ウィンリィも続く。
「ちょ……ちょっとそれまずいよ!」
「え、あんたまさか……」

 兄弟の制止に、は殺気すら纏って静かに告げる。

「口を出すな、錬金術師」

 息を飲む三人との行為に、ドミニクはため息をひとつついて言う。
「……で、ただ誰にも言うなってことか、これからあんたがすることを」
「承諾して欲しい。母になろうとする彼女のために、あなたの新たな家族のために」

 眼差しは強く。だが静かにドミニクに注がれる。

「……わかった。信じてやるよ」
「礼を言う――――『砂よ、在るべき姿を取り戻せ』」

 彼らには意味を成さない言葉をが言うと、の身体を淡いオレンジの光が包んで。


 つり橋の縄が、柱が、板が、焼け焦げた橋から芽吹くように岸の両端から生えて、完全に破壊される前に戻っていった。

「……すげぇ……」
 知らず漏れた言葉に、エドは我に返った。

「……」
 呆けるドミニクに、は告げる。

「サービスで滑り難くしてある。もう渡れるよ?」

 語尾を上げたその口調にドミニクも肚を括り、小さく言った。

「……すまねぇな。行って来る」

 しっかりと頷くに背を向け、雨具のフードをかぶり直し、ドミニクは馬を牽いて橋を渡る。向こう岸につくと背に乗って駆け出して行ったドミニクをただ見送るしか出来なかった三人に、は一瞥を投げて大きめの声で告げる。

「何を呆けている。早く戻るぞ」
「あ――うん。そうだよね、まだ、やることはあるかもしれないし」
 ウィンリィが小走りでリドル家へと走り出すが、エドとアルは動かずにいた。頬に張り付く雨に濡れた髪を払って、は兄弟に言う。

「……先に戻るぞ」
「なんで! そう簡単に!!」
「……人助けで謂れを受けるとは心外だ」
「だからって、何でもやればいいって訳じゃねえだろ……!」
「万能じゃないさ。現に、出産は全く何にも出来ない。生を享ける儀式だから」
「……ねえ、ボクも上手く言えないんだけど、なんでも自分だけでやろうとしないでね。なんだか、いやな感じがする」

「ああ。雨で視界は悪いし、周囲に人家はリドル家のみ。これでも相当気を使ったんだ、こんな状況でないと使えなかったよ」
「――そう云うわけじゃねえけど……まあ、いいや」

 あきらめのエドを見つめるは口の端だけ笑みを浮かべ、濡れた服越しに左腕を抱く。魔術の行使とともに湧き上がった、痛みを誤魔化すために。
 骨が轢み、爛れたような痛みが断続的にはしり、そのくせ底冷えする寒気が背筋までのぼる。唇の蒼さも雨に打たれたことで誤魔化せるのが有難い。

(ああ――――そう、いう訳か)

 この痛みは、魔力不足ではなく、世界が齟齬を訂そうとする力そのもの。
 おそらくヒューズを救った時の痛みも同じ。
 ならば何故エドの抱擁で齟齬が解けたのか。

 ――――しかし、今はその思考に浸っていい時ではない。

「さて、ひとまず戻ろう。ここにいても意味が無い」
「ああ」
「う、うん」

 きびすを返し、ぬかるむ山道を歩く。緩い坂を上ればすぐにリドル家の敷地内だ。




 戻ってみれば事態は深刻さを増していた。

「……破水したのか」
「うん。ついさっき。タオルは取換えれたけど……」

 錬金術で水分と汚れを取り除いたジャケットを椅子にかけ、窓際で一服を始めた。綺麗に外へ煙が流れていくさまをショックから立ち直ったパニーニャが眺め、リドルはテーブルの周りを右往左往している。
 状況が分からないアルがウィンリィに訊く。
「ねえ、破水って何?」
「いよいよ産まれちゃう……ってこと」
「だあっ、どーすんだよ!! 医者もいねーのに!」

 男性陣がそろって右往左往する中、咥え煙草のがのんびりと言う。

「陣痛の間隔は計ったか?」
「あ……ううん、まだ」
「トイレには……まだだよな」
「……うん」

 最後の一口を吸い終えて、携帯灰皿に押し込む。

「さて、人手は足りてる。どうする?」
「……はぁ、やっぱりそうなるわよね……」

 ウィンリィは深く深呼吸をし、勢い良くエド、アル、パニーニャを掴んでリドルに言った。

「私たちで赤ちゃんを取り上げます――――肚、括ってくださいね!」

 たとえその表情が青ざめた笑みでも、彼女は笑って言った。


 消毒用アルコールを煮沸消毒した手桶に張り、洗い立てのタオルと、下ろしたてを消毒したゴム手袋。それらを台所から拝借したキッチンワゴンに載せていく。
「……どうしたの?」
 俄に騒がしくなった自分の周りに、陣痛がひいたサテラがに訊う。
「……ドミニクさんがお医者さんを連れてきても間に合うか分かりませんから、できる限りの準備をしています」
「ありがとう……でも、大丈夫かしら」
「なに、いざとなれば女が三人もいます。逆子でもなければ問題ないでしょう。ウィンリィも私も、経験は無いが知識がある」
「あら、お医者さんの卵なの……?」
「ウィンリィの家は外科手術の面からも機械鎧の設備があり、祖母は外科医師でもあります」
「ああ……そう、なの……」
「私も、故郷でそれなりの医術は修めていますから」
 本物の医師の孫と、研修生らしき者。初対面ではあるが不審な素振りは無く、サテラを見つめる目は真摯だった。
「……そっか……じゃあ、手伝ってもらうかもしれないわね」
 額に浮いた汗を渡されたフェイスタオルでぬぐい、ひとつ息をつく。
「ええ、手を失礼」
 細く白い手が手首を掴み、壁掛け時計の秒針を見据える。暫くすると手首は開放され、その手は優しく置かれる。
「出来れば今のうちにお手洗いに行って頂きたい」
「あ、そうよね」
「付き添いは私でよいでしょうか」
「ええ。お願いするわ」


「あれ、サテラさん起こして平気なの?」
 ドアを開けると産湯の金たらいを持つアルがいて、サテラの手をとるは半歩先に移動しながら答えた。
「ああ、花摘みに」
「花摘み??」
「……トイレのことだよ」
 言われたアルは首を傾げかけ、合点がいったのか何度も頷いた。
「つうか、トイレなんて行っていいのか?」
 シーツを運び終えて手持ち無沙汰のエドが重ねるように言う。
「お産はいきむから、今のうちがいい」
「ふーん……」
「ああエド、段差を錬成で無くしてもらっていいか? どうにも歩かせ難い」
「了解……っと」
 の言葉にエドはすばやく二人の前に出て、敷居を尽くバリアフリーの傾斜面に錬成しなおしていった。
「ありがとう、おかげで歩きやすくなったわ」
 サテラの言葉にエドは頬を掻いて笑い、リドルが斜面の出来栄えに感動していた。


 トイレから戻り、最初より短くなった陣痛の間隔に疲れを感じたころ、が氷を浮かべた茶を持ってきた。
「口を湿らせる程度に抑えておいてください」
「ありがと……こんな氷、家にあったかしら」
「錬金術ですよ」
「なるほどね。……あ、おいしい」



 ドミニクが家を出てから一時間ほどが経過した。
 陣痛の間隔はいよいよ狭まり、苦痛に顔をゆがめるほうが長くなって。ウィンリィが懸命に腰をさすっても和らげる助けにもならなくなった。

「……こりゃ、本当に産まれそうだ」

 できるなら避けたかったが、出産後の処置は迅速かつ適切に行いたい。
「ウィンリィ、準備はいいか」
「……うん。大丈夫」
「パニーニャは?」
「うー……なんとか」
「よし」

 サテラのいる寝室のドアを開け、エドとアルに告げる。

「始める。用があったら呼ぶから待機しててくれ」
「お、おう」
「が、がんばってね!」

 少女たちは各々頷いて、ドアを閉めた。




「……」
「……」

 一瞬の静寂にドアに近寄る。

「痛い痛い痛い!」

 サテラの悲鳴に飛び上がり、部屋の隅に兄弟が踞る。

「……今、本っっ気で怖いって思った……」
「……ボクも……」

 こんな恐怖を与える行為でなければ人は生まれないというのか、産まれたすぐあとも一人では生きられないほど脆くて弱くて。
 そのくせ、簡単に死んでしまうのに。

「……こんな時だってのに、何もできやしねえのかよ」
「仕方無いよ。ボクら男だし。いるかもしれない神様にでも祈ろうよ」


 嘆息ひとつ。それきりエドは膝を抱え、両手を組んだ。




「っぁ――――う、く」
「サテラ、頑張ってくれ……」
「声は出さずに、息だけ吐いて。痛みを感じたときに、いきめばいい」

 ベッドの脚にめぐらせた縛り布を掴み、立ち会うリドルとともに耐えるサテラには言う。立てさせた膝に掛けたタオルの合間から、会陰を、なかをうかがう。

「これは……驚いた。子宮口が全開ときている。御子はしっかりと意思を以て産まれたがっているようだ」
「そそそれって大丈夫なの!?」
「ええ、もう全開!? ちょっと早くない?」
 慌てだすパニーニャとサテラの汗をぬぐうウィンリィの言葉に、は立ち上がって言った。
「予定日も近かったし、陣痛の間隔と子宮の具合から見て、切迫ではないだろ。あくまでも自然な流れさ」
 の言葉に、サテラは苦痛に眉を歪めながら小さく言う。
「だ……大丈夫よね……」
「もちろん。流れに逆らわずに御子を手伝って下さい。痛むときは、出ようとする力の証だから」
「そうよ、赤ちゃんだって苦しいの。産道を通れるように、肩も外すし、頭だって形を変えてくるんだから。お母さんも、一緒に頑張ってあげなきゃ」
 とウィンリィに励まされ、サテラはかすかな笑みを浮かべた。
「じゃあ……がんばら、ないと――――っ!!」

「来た。さあ、力を入れて!」
「腹式呼吸よ、がんばれ!」
「サテラさん、がんばれっ!」

「――ぁ、――っく、ぅ――――!!」

 絶え間なく訪れる痛みの波に、声を掛けてタイミングを測り、少しずつ、外へと促して。



「っ――たた、なん、か、突っ張って、い、た」
「え、突っ張るって……」
 サテラの言葉にが再び足許に向かう。
「あ――、少し狭いのか……参ったな、メスが欲しい」
「え、切開しないと無理?」
「張力が思ったより強いみたいだ……」
 思案する振りをして、エドに心話で呼びかけた。


 どう祈れば分からなくなったエドに、の声が直接頭の中に響いた。

<エド、今からパニーニャに私の剣を預けてくれ>

 急な出来事に声を上げそうになるが、慌てて心の中で言い返す。
<……え、剣て、お前の? どこにあんだよ>
<今から出す>
 の声が終るや否や、エドの目の前の空間に、楕円をした淡いオレンジの光が生まれ、そこから剣が生えてきた。
<手に取ったか>
<……ああ>
 あまりの事態に驚きが失せ、エドは静かに答えた。


「パニーニャ、エドが私の剣を持っている。取って来てくれ」
「ええ、剣なんか持ってるの
「護身用だ。早く」
「う、うん!」

 駆け足でパニーニャは部屋を出て、すぐに剣を手にして戻ってきた。

「これね?」
「ああ」

 手にした刀を抜き、刃を消毒用アルコールを含ませた布で拭く。
「ちょ……大丈夫かい?」
「先端を使用するだけです。お静かに。タイミングを要します――――サテラ、少し痛いが傷は残さない。しっかりといきめ」
「う……わか、った、信、用、するわ、よ」
「無論。ウィンリィ、切ったらすぐに出る。こっちに」
「了解」


 荒い息がしばらく続くが、声にならない声と、腰が浮く。

「――――ぁあっ!」

 サテラの短い叫びが上がると、既には刀を収めていた。

「頭が出た……! 今度はゆっくりと、息を吐きながら少しずつ力を入れて……」
 ウィンリィが笑顔でサテラに言う。
「ぅ――――ぁ……」
「そうそう、いい感じ」

 刀を壁に掛けたは手を消毒し、ワゴンをウィンリィの隣につけた。

「肩が出たら軽く引くぞ」
「うん」
 確実に産まれ来る赤子から目を離さずに、がサテラに言う。

「見事な安産になった。もうじき終る」
「そ――――……っふ、う」

 サテラのいらえと同時に、ウィンリィが赤子を軽く掴んで、呆気ないほどに抜け出せた。

「よし出た!」
「おおっ、出てきた――――!」
「あとはへその緒を……ありがと」
 が手渡した鋏でへその緒を、炎症を起こさぬようにウィンリィは慎重に結び切る。

 しかし、へその緒からの酸素供給を絶たれてすぐに上がるはずの泣き声がなかった。

「あ」
「いかん……」

 急ぎ、赤子を逆さに傾け、軽く背を叩く。数回叩くと飛沫程度の羊水を吐き出し、ようやく産声を上げた。

「ふう……びっくりしたぁ」
「お待たせした。男の子だ」

 タオルの上にガーゼを敷き、それに赤子をくるんでサテラに抱かせる。

「ああ……」

「おめでとう。よき日にうまれし御子は、健やかに育つだろう」
 笑顔で告げ、再び足許に戻る。

「サテラさん、おめでと!!」
「ありがとう、パニーニャ」
「仕上げが残っているからな、切開箇所の縫合と、胎盤を出す。足はもう少しだけそのままで」


 消毒済みの絹糸と針で数針、縫合する。それから胎盤を取り出し、始末しているところで血生臭くなり、蒼い顔のパニーニャがドアを開けるのと、切った箇所の回復を早める魔術をこっそりかけたりする後始末を終えるのは、ほぼ同時だった。



 少年たちは死ぬほど待ちわびた光景に、ただひたすら歓喜の声を上げて喜んだ。



「やった、いやあ、ほんとスゲーよ!!」
 興奮のエドに、ウィンリィは床に座したまま苦笑する。
「あんたがそんなに喜んでどうするのよ」
「だってよ、生命の誕生だぜ? 錬金術師が追い求めた奇跡を目の当たりにして、喜ばずにいられねーよ」
「生命の神秘と科学技術を一緒にしない!」
「う、だってよ、職業柄仕方ねーんだよ……」
 逃れるように視線を泳がすと、アルが産湯の仕度を手伝っていて。

「…………うん。でもやっぱりすげーよ。女の人ってすげー」



 そのまま腰が抜けたウィンリィと、負ぶって連れ出すエドが交わした会話は、痛みと決意で締め括られた。



 一息ついた頃には雨も上がり、医者を連れてドミニクが戻って来た。初産でも相当なスピード出産と安産に驚き、少女たちの手際のよさに感心して医師は自分の馬で戻っていった。

「は〜〜い。おじいちゃんですよ〜〜」

「じじバカ炸裂」
「キャラ違う……」

 豹変ともいえるドミニクの態度に、兄弟は素直に突っ込んで。

「どうですか社長、これを気に弟子入りを許可しては」
「却下」
 赤子を取り上げた功績をだしに、エドが弟子入りを懇願するも瞬殺するドミニクだった。
「嬢ちゃんにも家族がいるだろう、ちゃんと家に戻ってやんな」

「そっか……そうだよね、リゼンブールのあの広い家にピナコばっちゃん一人になっちゃうんだ」

 ――――アルの発言でドミニクは椅子から転がり落ちた。

「リゼンブールの……ピナコ?」
 怪訝な表情のウィンリィがドミニクに言う。
「はい。ピナコ・ロックベルはあたしの祖母ですけど」

 ――――ウィンリィの発言に壁際まで後退するドミニク。

「ピナコ・ロックベルの孫……」
「あの、ばっちゃんと何が」

「言うな! 古傷が裂ける!!」

 リゼンブールの女豹なんて二つ名を震える声で呟いたドミニクは、罰が悪そうに咳払いして。

「と……ともかく、弟子は取らん。あの女の孫なんざおっかな……いや。まあ、どうしてもって言うんなら、ふもとの腕のいい技師を紹介してやらあ。孫の顔もたまーになら、見に来ていいぜ」

「素直じゃないでやんの」
「ねー」

「うるせぃミジンコにデカブツ。そっちの手癖の悪いくそがきも、改心したら一緒に来てもいいぞ。お嬢もな」

 頬が赤いのを自覚するドミニクは、けして少女たちを見ようとはしなかった。










 お包みにつつまれて赤子はサテラの枕元で眠る。が作ったポトフと紅茶で食事を済ませたサテラも、疲労のために夢心地。
 同じメニューをお代わりしていたリドルとドミニクは居間で祝杯を挙げ始め、ウィンリィとパニーニャがご相伴に与り、エドとアルが皿を洗ってくれた。
 つまみに人参と大根の野菜スティック、鹿肉の燻製やチーズを出してから、散歩に出ると告げては雨上がりの山道を歩いていた。

 むせ返る暑気も、夜の、雨上がりの山は涼しい風を運び、澄んだ空気が漆黒の夜空にかがやく星を克明に映して。あるがままの美しさに包まれながら、宛もない思案が頭を巡る。

 赤子に肌着とお包みを着せた時に、触れた、命の力。
 途方も無い生の輝きに、じくじくと爛れるような身体の、たましいの痛みが澄み渡るように消えていった。

<<命に触れるだけで齟齬を填められる――――否、修正されている。世界には、それだけで帳尻が合うものなのか?>>
 寄り添う精霊たちに訊う。しかし、応えは返ってこなかった。

 実際に対峙した事は無いが、世界には在るべき姿から大幅に異なる状況に陥る時、あるものを生み出す。
 調整者、守護者と呼ばれ、人には成し得ない奇跡を行使するモノ。
 元いた世界でも伝承しかないが、精霊に問えばたやすく回答を得る、奇跡の存在。
 異世界だろうが、精霊が在るならば、ここも同じように世界が世界で在る為の干渉が起きる。
 実際、己の魔術はこの世界から見れば脅威でしかなく、自分を消しに守護者が現れてもおかしくは無い。

 だが、そんな予兆は微塵も無く、自分はこの世界に影響を与え続けている。
 守護者の奇跡の力なら、自分を元居た世界に戻し、矛盾を正してくれるだろうに。

<<答えてくれ。世界は、守護者の出現を望んでいるのではないのか?>>


 漸く――――水霊ワイズからの声が返ってきた。


<<って、正規の手順踏んでないの?>>


 更なる混乱を伴って。

「は?」

 素で声が出て、急ぎ切り替える。

<<え、正規の手順とは、どういうことだ?>>
<<どういうもなにも、言葉通りだよ。守護者としてここに在るでしょ?>>

 守護者として? 自分が?

<<ちょっと待て! 私はそんな規格外になった経験は無いぞ! ていうか守護者は死後に英霊になってからだし死んでないし!>>
<<あ、じゃあ生きたまま英霊になったんだね>>

 さすが死ぬことの無い精霊。生死を問わず、明るく言う。

<<ちょ……本当に?>>
<<うん。が、守護者>>


 そりゃあ現れない。自分が守護者なら。


「は……はは……いつの間に……」

 最後の記憶が自宅で昼寝で、気付いたら英霊って言うか守護者? どんな罰ゲームですか。

 けれど、納得できることもある。違和感を感じない言葉、生活様式、風俗。自分を囲むほとんどのことが、当たり前にできている。この世界に合せて、あつらえた様に。

<<きっと正規の召喚じゃなかったんだね、記憶の混乱とか、力が弱いとか、反動があるとかそのせいでしょ。受肉したのに完全じゃないのも、同じ原因なんじゃないのかな>>

<<確かに……はっきりと肉体を持っている。英霊ならばエーテルの集合体に過ぎないはずだが>>
<<まあ、記憶の混乱はそのうち直ると思うし、世界からの意思も無いよね、その感じだと>>
<<全く無い。普通に生きてるだけだ>>
<<それなら今迄通りで行こうよ。が、したいようにすればいい。そのうち世界から何か言って来るでしょ>>
<<…………そうだなあ、どうしたらいいかも解らんし、気長にいくか>>

 肩を落としてため息をつくと、山頂付近まで登っていたことに気付く。

「まいったな――……」

 頭を掻いて、煙草に火を点ける。煌々と照らす白い月も、星々も何も語りは無い。

「守護者として、か……どうしろってんだ、私に」

 答えは無い。

 もう一度ため息をついて、レコルト家に戻るため歩き出す。


 来た時は気付かなかったが、結構な長さを歩いていたらしく、家のそばまで戻るのに三十分ほどかかった。


 雨に濡れた丸太の椅子の傍に、アルが立っていた。

「あれ、どうしたんだ、アル」
「…………誰かさんがちっとも戻ってこないから、探しに行こうとしてたところだよ」
「すまん、気持ちいいから歩きまくった」
「その……身体の具合は大丈夫?」

 列車での事をエドから聞いてると、小さくアルは言う。そんな出来事の後の今日の魔術は、兄弟にどれだけ肝を冷やすこととなったか。

「ん、ああ。赤ちゃんに触ったらすごーく元気になったから、ぜんぜん平気」
「赤ちゃんに触って直るものなの?」
「いのちのかたまりだからね。赤子は。だから大丈夫だよ」
「そういえば、少佐とデートだったときも、そんなこと言ってたね」
「ああ。エドにも言っておいてくれ。私も寝るよ。お休み」
「わかった。お休み」




 一夜明けて、がレコルト家に振舞った朝食は豪華だった。

 鹿肉の燻製をワインにひたしてポトフの具と合わせた餡の饅頭、残ったスープでベーコンと白菜を重ね合わせ、切り揃えた煮物、艶も眩しいチーズオムレツ、カリカリのクロワッサンにふかふかのパンと、クリームいっぱいのポタージュ。

「うわ――すげぇ……」
「気合が入ってるねぇ……」

 目を丸くするリドルとドミニク、パニーニャに、諸手を上げて喜ぶのはエドとウィンリィ。

「まあまあ、自分でご飯の仕度をせずに、こんなに豪華なんて贅沢ね」
 初乳を終えて一息ついたサテラに、手近なクッションを添えてが椅子を用意する。
「必要最低限以外は動かないで欲しいと思っているが、人手は足りるのか?」
 口調を普段に戻しても、サテラはにこやかに答えた。
「ええ、母が来てくれる様にしておいてあるから。……ただ、予定が早まっちゃったけどね」
「そうか……母君にも準備があるだろう。良ければ、数日間、手伝おうか?」
「あら、いいの?」
「迷惑でなければ」
 二人のやり取りに、エドが料理をを見比べて言う。
「ちょっと待てよ、師匠のところはどうすんだ」
「まさか師の許で一泊もせずに移動する、とは言わないよな?」
 間髪入れぬ返答にエドは言葉を失い、口だけが力なく動いて。
「はあ。兄さんの負け。ダブリスで待ってようね」
 アルの言葉にエドはうなだれ、エド以外から笑い声が上がった。






 ダブリスに向かうエドとアルを見送るため、ラッシュバレーの駅まで向かい、帰りにウィンリィの修行先を訪ねることにした。

 ドミニクも一目置く機械鎧技師、ガーフィール・コリンズの技術は素晴らしく、ウィンリィにとって得る物はそれこそ山とあったが、そのキャラクターには少々特異な点があった。

「ドミニクさんの紹介なら、無碍には出来ないわね……いいわ。明日から住み込みで働いて頂戴」
 ギャランドゥな体毛と、がっしりとした肉体の持ち主が、野太い声でウィンリィに言う。対するウィンリィも初見こそ圧倒されたが、しっかりと受け答えた。
「はい! よろしくお願いします!」

 大輪の薔薇をあしらった瀟洒なティーカップを、節くれた指が上品に絡み、小指を立ててカップに口つける。
「ん〜〜〜、いいお味ね、あとでお茶の葉、分けていただけないかしら?」
「いいよ。お近づきのしるしに」
 最初から敬語を使わないに、ガーフィールはにこやかに会話する。紅茶好き同士、意気投合したらしい。

 女性同士――ではないが、和やかにお茶を楽しんでいると、屋内なのに、上から雫が落ちてきた。
「あれ」
「ん、もう。また雨もりかしら……あとで呼ばなくちゃ」
 昨夜の雨の影響が今も残っているとなると、この店は相当がたがきているようだった。

「ああ、パニーニャ、見てきたらどうだ?」
 そんなの言葉に、パニーニャは目を丸くした。
「あたしが?」
「めちゃめちゃ身軽じゃないか。補修用のテープぐらい、貼れるだろう?」
「うーん……ガーフィールさん、やってみてもいい?」
「ああ、直してくれるならお願いしたいわ」

 パニーニャが店と隣の店舗の壁を使い、三角飛びの要領で屋根に上がる。

「すごいわね、あの子」
「やっぱりサルみたい……」
「パニーニャ、どうだ? ひび割れとか、すみっこにないかな」

「ある。たくさん」

「…………あらら」
「テープよりもモルタルのほうがいいな」

 隣の工具店で補修に必要な一式を購入し、ロープで屋根にあげる。

「まずはモルタルを練って、耳たぶぐらいの固さにするんだ。それからごみが入らないように蓋をして、補修箇所の箒がけと防水処理。あとはコテでひび割れを埋めるように伸ばして」

、あなた左官屋さんのお嬢さん?」
 適確な指示にガーフィールが言う。
「家も同じようなつくりのものでね、慣れてるだけだよ」
 半分事実、半分嘘だった。守護者として召喚されたときの後天的な知識が、様々な知識をもたらしている。


「まさか世界は守護者を便利屋と考えているのかな」
 悪くない想像に笑みが漏れる。


「なんか言った?」
「なにも」




 一時間ほどで作業は終り、パニーニャは水を得た魚のように生き生きとしていて。
「ねえ、屋根の修理工って仕事あるかな?」
「そうねえ、手先が器用な人は多すぎる町だけど、意外に儲かるかも。やってみれば?」
「だとしたら出来ればどこかに弟子入りしたほうがいいんだけど……そういえば屋根専門は居ないわ。左官と配管、両方に教えを乞うのがいいんじゃないかしら」
「じゃあ、やっていけそうだね!」
「良かったな、パニーニャ」
「うん! ありがと!」




 パニーニャの家に寄る前に、サテラの実家へと手紙を届けに行く。
 昨日無事男児を出産したこと、少女たちが産婆役を見事にこなしてくれたこと、が数日間は手伝ってくれることを知ったサテラの母は、涙を浮かべて少女たちに礼を言った。

「早く娘と孫の顔が見たいから、明後日にはいくって伝えておいて」
 伝言とともに大量の食材を受け取り、実家を後にした。













「ウィンリィちゃん、機械鎧の製鉄は自分でやったことある?」
「いいえ、配合の比率を指定して、外注してました」
「そう。じゃあまずは鉄をもっと識ってもらわないといけないわね」

 翌日、早めの朝食を済ませてレコルト家を出たウィンリィは、挨拶を交わしてすぐに出たガーフィールの言葉の真意が読めなかった。

「これを見て頂戴」
 そういってガーフィールが見せるのは十枚の小さな鉄板。縦横三センチ、厚さ五ミリに揃えられた鉄板だった。
「…………? なんですか、これ」
「あとこれ、あげる」
「――――?」
 更に、手渡される柄の長くヘッドが小さい金槌。

「いい? この板はそれぞれ異なる比率で製鉄された鉄鋼よ。それをこの金槌で叩いて、それぞれどの程度の配合になっているか、調べなさい。期限は今から二十四時間。出来なかったら弟子入りはあきらめてね」

「え……えぇぇえええ――――!!」







 夕刻になり、馬を借りて買い物帰りのが顔を出した。

「こんにちは――って、ウィンリィ、初日から死にそうになってないか……」
 にこやかなガーフィールと対照に、作業用の机に突っ伏して泣きそうな顔をしていた。

「……ふむ。鉄の比率か」
「音の違いはすぐ解るんだけど、どの添加物かなんて、ぜんぜん分かんないわよう……」
「うーん……高い音が出るのは、硬度が高いからだろ、逆に低いのは、粘度が高い。機械鎧に使用する鉄鋼で、使用する頻度が高い添加物は?」
「珪素、ニッケル、クローム、スチール、カーボン、チタン……ああ、そっか」

「あとは、やれるな?」
「もちろん。ありがとね」

 不敵に笑って、ウィンリィは鉄板と格闘を始めた。

 それまで黙って見ていたガーフィールが、に紅茶を勧めながら言う。

「その慧眼勿体無いわ。うちで働かない?」
「有難い申し出だが、やることがあってな。定職には当分、就けそうもない」









 ――――更に翌日、もエドとアルを追ってラッシュバレーを出た。

 師匠の家に電話があるといわれていたので、この世界二度目の電話を掛けたが、あいにく話し中だった。






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