――――英霊。

 生前に偉業や功績を残し、人々の間で伝承や信仰の対象として遺されたものが、概念となった存在。
 それゆえに、実際には行ってはいない奇跡も、『人々』が信じたユメならたやすく体現できる存在。
 すなわち、イメージの強さ、印象深さこそが英霊の強さであり、また枷でもある。

 竜の返り血を浴びて不死となった騎士が、背中に張り付いた落ち葉のせいで、そこだけは不死ではないという物語のように。

 ――――伝説の概念が、世界において英霊を生み出した。生まれた英霊が非常に著名な場合は、在るだけで世界の一端となり、知名度の低い英霊は、世界の意思において抑止力、すなわち守護者となる。生まれた本人の意志は排除して。

 世界が危機に瀕したときにだけ現れ、滅びから回避するためだけに活動し、危機を排すればただ、消え去るのみ。

 ただ、世界が世界足らしめるそのためだけに、使役される、世界の奴隷に成り果てる。



 そう、抑止力とは、本当に世界のための便利屋なのだと、昔聞いた話を思い出しては思った。

(しかし――――なら、ここに居る自分は、何故、自我を明確に保つ? 世界が崩壊する危機にあるなら、速やかに排除して、ただ消える――それが抑止力どまりの守護者ではないのか?)

 今はただ餞別代りのダブリス行きの切符と、サテラの母手ずからの弁当を膝の上において、汽車に揺られて、車窓から景色を眺めている。
 そばに居てくれる精霊たちも、守護者に対して世界の意思は何も感じないといっている。

(わからない……確固たる血肉を持つと自覚してるし、生理現象も有する。この身が、守護者など)

 それでも否応無しに自覚出来る、あの夜以降からの途方も無い知識量。
 水霊ワイズとの会話で言霊として縛られたように、守護者として位置付けられたときから、今までの知識などほんの一端に過ぎなかったと思えるほどの――――いまならきっと、マルコー・ノートすら一日で解けてしまう実感と裏付けられた情報がこの身に在る。


(どうせなら力が戻れば良かったのになあ)

 そうすれば抑止力らしく、鮮やかに危機を排除し、奇跡の力で元の世界に戻ってやったのに。


(――――ま、いいか)

 身体と世界とのずれも直ってはいないが、守護者としてなら、異世界でも魂が軋轢に耐えられずに消える可能性は考えられない。


 深く考えずに、として在るがままにいよう。













『お母さんを元に戻したい』

 純粋な願いだった。

 過ぎ去った、暖かな、幸せを取り戻そうと、懸命に探して、探して、そして――――





 死者に息吹を与えられるのは生者だけだ。

 だが、ひたむきに求めた方法が、間違っていたら?


 
 斯くて――――世界からの審判が下り、現実という名の刃が振り下ろされた。






 四年の空白を埋める告白を果たしてしまうと、後悔など出来る筈も無いが、自分たちの行為がどれだけ自分の中で重くなっていたか実感するエドとアルだった。

 そして、それを罵るでも、赦すでもなく、ただ、彼女たちが受け止めてくれたことが、途方も無く有り難かった。
 禁忌を犯したことで破門され、師弟関係は破棄されてしまったが、師である彼女の夫の一言で対等に付き合えばいいと教えられ、今も滞在することが出来ているし。師匠と呼んでも怒らないし。



 ――――まあ、自分のための棺桶を買って来いと言われた時はさすがに肝を冷やしたが。



 居ても良い、と受け入れてくれたことが、本当に有り難かった。













 師匠の言いつけで日用品の買出しのために駅前にある大型雑貨店に居たエドは、目当ての品を陳列棚から探しているところだった。

<……ド、エド?>
「ん……?」
 どこか、憶えのある、頭の中に響く声。
<私だ。じき、ダブリスの駅に着く。迎えに来てもらっていいか?>
<……?>
<私以外に心話を飛ばせるやつと知り合いか?>
 どこか楽しげなの言葉に、エドは憮然とした表情のまま心の中で言い返した。
<いねーけど。あとどの位だ?>
<さて、水の匂いが近い……十分も無いんじゃないか。すぐに来れないなら、駅前でぶらつくが>
<問題ねーよ。丁度、駅前にいるから……南口に出て待ってろ>
<承知した>


 そこで心話は終わり、エドは或る事実に気付いた。

「やっべ……師匠にのこと、話して無ぇ……」


 どう説明したものか一瞬ためらうが、と話し合う方向で決めようと思い、買い物を済ませて店を出た。








 ホームを包む熱気は、故郷に良く似ていた。

(これで潮の香りがしたら、錯覚しそうだ)

 強い日差し、流れる風、白い石が主原料の町の造り。人々の薄手の装い。汽車の存在が無ければ、戻ってきたと勘違いしていたかもしれない。

 ここに――――エドとアルの師匠が居を構えている。

 エドの指示通り、南口に出てみる。すると、階段の手すりに寄りかかってエドが立っていた。

「……よう」
「お待たせ。来てくれて助かった」
「…………おう」
 感謝を口にすると、普段の横暴というか尊大というか、ぶっきらぼうな態度のエドが、居心地が悪そうに小さく答えた。
「どうした? 無理して来てくれたんなら、時間を延ばして良かったんだぞ?」
「そうじゃねーけど……なんつうのかな、お前、変わった。上手く言えねーけど」


「――――そう、か?」


 なんと言うか、素晴らしい野性の直感である。魔術師とはいえ只人だと思っていたこの身が、守護者と一目で感じているのだ。だが、守護者なんて人外のモノなのだとは明かす気にはなれないは、怪訝そうな表情を作って問い返した。

「ああ、格好良くなった……ってのが近いのかなあ……特訓とかしたか?」
「いや。ただ、サテラの手伝いをしただけだが」
「そっか。じゃあ気のせいかな」
「気のせいだろ」

 微妙に腑に落ちないエドが唸る。これ以上詮索されても面倒と思うは、エドの師匠の家に行こうと提案する。

「あ、そうそう。そのことでお前に相談したかったんだ」
「どういうことだ?」
「実はまだ、おまえのことを師匠に話してない。だから、どう紹介したもんかなって」
 エドの問いかけに、は腕を組んで答えた。
「そんなのセントラルと同じでいいじゃないか。身元保証人もしっかりしている」
「ところがそうもいかねーんだよ……」
 思ったよりもエドの反応は難色を含み、彼女を知らぬは素直に訊く。
「どうしてだ?」
「師匠、本っっ当――に、感が鋭いんだ。下手に嘘つけば、どんな目に合わされるか……」
 語るエドの顔色が見る間に青くなる。骨の髄から怖れているのを如実に表して。
 それにエドの師匠なら、直感スキルA++というか未来予知すら可能かもしれない。

「ふむ……少し、対策を練るか。そこの茶屋で一休みも兼ねていいか? 喉が乾いた」








 オープンカフェの一席に腰を下ろし、グァバとマンゴーのジュースを注文して、軽く伸びをしたは煙草に火をつけて煙を吐いた。相変わらず無意識に魔術で排煙するものだから、エドに届くのはかすかなカモミールの香りだけだ。

「エドの師匠は、真理への探究心は強いのかな」
「うーん……どうだろ、オレ達よりは弱いと思うけど、なんでさ」
「ありのまま話すのが、一番穏便に事を運ぶと思ったからさ」
「ぐあー、やっぱそうなるか」
「……吹聴してまわるような方ではないのだろう?」
「そりゃあそうだけど……」

「ならいいじゃないか。私は構わんよ」
 オーダーしたジュースが来て、グラスをあおる。氷で冷やされた程よい酸味と甘さのグァバが、汽車での疲労を軽くしてくれた。

「……って用心深いんだか無防備なんだかわかんね」
「エドが信じた相手を、私が信じない道理は無いだろう?」
「――っ、そんな、こと」

 顔に血が上るのを自覚しつつ、エドは苦い顔でに言う。

「…………マジで、よくわかんねぇ」





 カフェをあとにして、二人は師匠の家へと歩く。が居ない間に、奇妙な風体の物乞いに出会ったことをエドは伝えた。
「尻尾の生えた男……ねぇ。トカゲみたいに壁も登った、か」
「ああ、なんつうか……魔物みたいだなって思ってさ。なら心当たりあるんじゃないかって」
「いや……この世界ではあやかしの存在を――――」
 言って、脳裏に浮かぶのは、闇の化身だった。元より在るモノではなく、生み出されたモノ。
「何か、分かったのか?」
「――すまん、心当たりは無い」
 守護者として与えられた知識から想像はついたが、確証が無いはかぶりを振った。
「そうか……ま、いっか」
 切り替えの早いエドに笑みをこぼし、は別の話題を口にする。
「アルはどうした?」
「師匠のお使いでちょっと遠出してる。夕飯前には戻るだろ」
「そうか。その師匠はどんな人なんだ?」
「……名前はイズミ・カーティス。肉屋を経営してて、ごっつい旦那のシグさんと、住み込みの店員、メイスンさんと三人でやってる。身体が弱くてしょっちゅう吐血してるけど武術の達人で、オレと同じように陣を書かずに錬成出来る。性格は……会えば分かる」
「……真理に触れたのか」
「ああ」
「そう、か」

 エドの想いを知らぬだが、禁忌を犯した結果、真理に触れたのだと予測は出来て、店の裏手に回るまで、二人は口を噤んだ。


 裏口には笑顔を浮かべる体躯のいい男がコーヒーを片手に小休止をしていて、意を決してエドは口を開いた。

「ただいま戻りました」
「あ、エド君、お帰り……って、その娘、どうしたの? ナンパ?」
「違う」
「え、じゃあ迷子?」
「違うって……どたばたしてて話してなかったけど、旅の同行者」
「ええー、ほんと?」
「なんで疑う」
「エド君たちって二人だけで居るのが好きそうだから」
「…………」

 否定できない面があり、エドの反論が遅れて、は一歩前に出た。

「本当ですよ。エドたちに同行してます。です」
「そっか、俺はメイスン。ちゃんか、よろしくねー」
 実に爽やかな笑顔でメイスンはと握手を交わし、手が離れてすぐにエドは言を継いだ。
「師匠とシグさんにも挨拶してくるから、、行こうぜ」
「ああ」

 店舗の隣に建てられた住居の中は陽が入らない分少し涼しく、エドの先導である部屋の前に立つ。エドがノックをして、ドアの向こうに声をかけた。
「師匠、ただいま戻りました」
「おかえり、――誰を連れてきたんだい? 知らない足音がする」
「……」
<確かに武術に秀でているな。足音で理解してしまった>
 からの心話を無視して、エドは言う。
「きちんと話してませんでしたけど、今回の旅には同行者が居るんです。別行動してて、追いかけてきたから連れてきました」
「そうか――入りなさい」
「――――はい。失礼します」
「失礼します」

 エドに続いて一礼してドアをくぐり、前に出る。


 ――――ベッドに居る、その人を見たとき。

「あ」

 ――――植え付けられた情報が爆発した。







 ■■によって■れた、■。■の■■■では■■■で、■を■すしか■■かった。


(記憶、が)

 ■■では■■■で、■を■すしか■■かった。


(情報に、上書きされて)


 ■を■すしか■■かった。


(――――い、や。消えるな。消えるな消えるな消えるな消えるな消えるな消えるな消えるな!!)




っ!!」





 懐かしい――――懐かしい? ■の声で我に返った。


「どうしたんだよ、ぼけっとして」
 隣に立つエドが、怪訝な顔をしていて、は自分がどこに居るのか、一瞬理解が遅れた。
「あ、いや……すまん、ちょっと立ちくらみ、かな?」
「大丈夫かよ、あのおっさん、こき使ったんじゃねえの?」
「それは無いよ。久々に乗り物に酔ったかな」

「……とりあえず、椅子にかけなさい」

 渋い顔のベッドの主の女性がに言い、壁際に立つ屈強の大男が無言で椅子を差し出した。



 挨拶を交わし、打ち合わせ通り、はありのままの事情を説明する。
 無論、守護者という正体は明かさずに、異界からの迷い子として。

「精神科への紹介状なら出してやれるぞ」
 エルリック兄弟の師匠、イズミ・カーティスは一通りの説明を聞いてからそう言った。

「うむ。真っ当な反応だ」
「……実際に見てもらうしかねぇな」
 平然とする、嘆息するエドにイズミは続ける。
「見るって、魔術を? 大体、錬金術と魔術の違いはどう説明できる?」
「――――錬金術は等価交換、質量保存の法則に則り、既存の物質を理解、分解、再構築するもの。対して魔術は術者の戒めによって能力に制約を受けますが、錬金術のような縛りは薄く、見えない物質を理解、流動、出現させるものです」
「……」
「ほう。見えない物質、ね」
「はい。もう少し細かい要素もありますが、体系化すると見えないものになります」
「ならば、それを制御する力はどこから生まれる?」
「魔力と呼ばれる特定の体内エネルギーが主ですが、それは世界中に満ちている魔力の太源を肉体という器に僅かに貯めているに過ぎず、大抵の魔術師は太源から肉体へと魔力を転換して取り込みます。といっても少しずつしか取り入れることができませんし、逆に、太源から直接魔力を取り込める存在は、私の知る限りでも数人のみです」
「……なるほどね。確かに錬金術とは違う理屈だ。いいだろう、その魔術を見せてもらおうか」
「はい」

 言っては椅子から立ち上がり、シグがイズミを護るようにして立つ、ベッドの前に出た。
「まず、外見に変化はおきていませんが、たった今結界を張りました」
「結界?」
「目眩ましに完全防音の効果と――――外界との遮断です。私が解除しない限り、この部屋からは一歩も出ることが出来ません」
「……あんた」
 イズミの言葉にシグはゆっくりと頷き、巨体が窓に近づき、普段のように窓を開けようとした。
「……む」
「今は目立つようにしていますが、違和感を感じたと思います。全力で壊しにかかっても、破壊できません」

「――ぅりゃあっ!!」
 シグは一歩下がり、渾身の力で窓に拳をぶつけた。大砲のような音が室内に響く。
 だが、窓そのものに接触はかなわず、何か、膜のようなもので打撃の威力が殺された。

「……ぬう」
「へー……」

 さすがのイズミも亭主の一撃が無効化した事態に目を丸くしていた。

「ドアも開かないんだ」
「ノブを破壊することも出来ません」
「どれ……」
 そしてイズミはベッドから降りて、裏口用のドアに向けて強烈な蹴りを放つ。こちらも、強い破砕音が部屋に響く。
「――――っ……」
 しかし、膜のようなものでやはり衝撃が無効化されてしまい、苦い顔でイズミは下がり、ベッドに腰を下ろし――――少なくない量の血を吐いた。
「――――あ、大丈夫ですか……?」
「いつものことだ……ほら。無茶するな」
 慣れているのだろう、シグが自然な動きでタオルと薬を持って寄り添う。それ以上の追求はせずに、は結界を解いて言った。
「――今、結界は解除しました。どうでしょうか。これが魔術の一端のわざになります。信じていただけないでしょうか?」
 の言葉に、エドが室内側のドアノブに手を掛けると、ごく普通にドアは開いた。
「……何とまあ、面白いと言うか、面倒事と言うか」
「…………元の世界に戻れる当てはあるのか」
 魔術を目の当たりにしてようやくカーティス夫妻は、とりあえずは信用してくれたようだった。
「確証はまだ持てませんが……何とかなる、とは思います」
 いつか来る危機を排除するか、守護者として世界に干渉することができれば、きっと戻れる。
「……ふむ。わかった。あんたも修行していきなさい」
「――私が、ですか?」
 何故ここで修行の言葉が出るのか理解出来ないが聞き返す。
「見たところそれなりに鍛えているようだが、最近サボってるだろう、足の運びが甘い」
「…………ご慧眼をお持ちだ。分かりました。短い間ですが、御世話になります」
 頭を下げは言い、イズミは付け足した。
「料理は出来るの?」
「まあ、それなりに」
の飯は普通以上に美味いと思う」
 の言葉にエドが口を挟むと、イズミは頬笑みを浮かべて言った。
「じゃあ夕食はが作って」
「……魚がメインでもいいですか? こちらに来て以来、新鮮な魚に餓えてるので」
「いいよ。うちは十人前は食べるから、しっかりやんな」
「はい。気合を入れて作ります。じゃあエド、買い物に行くから付き合ってくれ」
「ええ、今から?」
「ああ、時間が惜しいし、地理に疎い」
「しゃーねえ。じゃあ師匠、いってきます」

「ああ。いってらっしゃい」


 一礼して二人は部屋を出る。彼らの気配が家の外へと消えてから、イズミは肘をついて唸るように呟いた。

「ったく、なんて騒動の種だ。人間ぎりぎりの範疇にゃ居るが……危うくて仕方無い」
「だが、嫌な感じは無いな」
 亭主の言葉に、イズミは同意を示す。

「久々に骨のあるやつが居るんだ。気合を入れるとしますか」















 カウロイ湖から揚がったばかりの魚を使い、焼く、蒸す、揚げる、煮る、炒めると五種類の調理法による、渾身の魚尽くしがカーティス家の食卓に並んでいた。

 ニジマスと鯉の香味焼き、海老とムール貝の酒蒸し、白身のチーズはさみ揚げ、わかさぎのフライに甘露煮、ブイヤベース、魚介類の酢豚風炒め、大根とアボカドとサーモンのマリネのゼリー寄せ。

 更に、テーブルのそばにはガーリックトーストとバゲットが籠いっぱいに入れられている。

「う――――わ…………」
「すっげえ豪華……」
「……」

 目を丸くして目の前の料理から目が離れないエドとメイスンに、無言だが感動しているシグ。

「本当に魚ばっかり。でもすごいね」
 にこやかに言うイズミに、は満足した笑顔で答える。
「はい。もともと海育ちなので。こうしていい魚を食べれるのが一番好きなんです」
「手際も良かった。大人数での食事は良く作っていたのか?」
「普段はこの半分ですけど、傭兵の仕事の時は野外で二十人分作りました。さすがに五十人分のときはしんどかったです。こちらは圧力鍋があったから、時間を短くできました」
「へえ、傭兵ねえ。それで亭主を見ても驚かないんだ」
「シグさんほど迫力のある人はいませんけど、歴戦の猛者だー、って強面は多かったですね」
「見処あるじゃないか。うちの人はいい男だろ?」
「はい。寡黙で、いい男です」
「あはは、そうだろそうだろ!」
 高らかに笑うイズミがの背を叩き、強烈なはたきに火花が散った。
「っつ――……効くなあ」
「師匠、すごいでしょ。ボクらはもっと小さい時にそれやられて、いっつも吹っ飛んでた」
 言いながら戻ったばかりのアルがの背をさする。
「あ、ありがと」

「でも……いいなぁ……今日のはさすがにボクも食べたい」

 ――――その一言で、賑やかだった空気が淀んだ。

「今のボクでも美味しそうだなって感じるぐらい、きらきらして見える」

「あ――――アル……」
「アル君……」
「…………」

 エドも、事情を知ったメイスンも、シグも、言葉を継げずにいて。イズミですら、何も言えなかった。
 そんな中でが言った言葉は、皆を思考停止に陥るに十分なものだった。


「ならば――――食べた感覚だけ、共有してみるか?」


「でも無理な…………へ?」

 一番早く復活したアルが声を上げる。アルの行為で次に復活したのはエドだった。

「感覚を共有させるって……そんなこと、できるのか」
「ああ。アルの五感すべてを一時的に誰かと維げて、誰かが食べたその感覚を流すだけだから。別に魂をいじくるわけじゃないし」
「つまり、ボクが感じたことはボクだけのもので、ただ、情報を受け入れるだけ……?」
「その通り。やっぱエドか、私の感覚と共有するのがいいとは思う」
「すっげえな――――なあ、ずっとそういうこと、出来るか?」
「長時間は駄目だよ、アル自身の感覚が他人の情報に上書きされちゃうから。例えば、エドとずっと維げてたらアルまで牛乳嫌いになる」
「うわ、それは嫌だ。兄さんと一緒になるのは」
「なんだか引っかかるものがあるな弟よ」
「あーでもさ、逆に僕の感覚で上書きすれば牛乳嫌い直るよね?」
「……一応医療行為の一環なんだ……好き嫌いは自力で治せ」
 失った感覚を取り戻すのに使用する、れっきとした治療だとは言い、魔術師だとは知らないメイスンが感心した表情でに訊いた。
「なに、ちゃんてそんなことできるんだ」
「はい。私はそういう類の扱いが得意な術師なんです」
「へ――すごいね〜」

 和気藹々の四人に対し、イズミが告げたのは、明確な拒絶だった。

「ズルは駄目」

「う……」
「えー」

「返事は?」

「……はい」
「……はい」

 物言いたげなとシグ、メイスンを見たイズミは、頭に手をやってため息交じりに言を継ぐ。
、あんまりこいつらを甘やかすな」
「……すみません」
「…………まあ、今日ぐらいは許可するよ。みんな席に着いて。せっかくの料理が冷めちゃうじゃないか」
 椅子に座りながら告げられたその言葉にアルは恐る恐る言う。 
「いいんですか……師匠」
「今日だけだからね。それに、アルの記憶を戻すのに役立つかもしれないし」
「――はい! ありがとうございます!」

「やったなアル!」
「うん!」

 喜び合う兄弟に、の言葉がかぶさる。

「じゃあエド、10ccほど血をもらおう」

「え」

「リンクさせるのに必要なんだ。ほら早く」

「――――10ccの血液を即座に出せる変態じゃ無ぇ」

「しょうがない。こっちに来い……あ、皆さんは先に食べててください。すぐに終りますから」

「…………」
「…………」
「わかったよ。じゃあ、いただきます」

 イズミだけが平然とフォークを手にし、取り皿に料理を取り分けていった。







 思い出したくも無い方法で採血を終え、兄弟に魔術を施すとエドの感覚がアルに流れ込むようになり、数年振りのアルの『食事』が始まった。


「うわあ……! 、香草焼きだっけ? すっごく美味しい!! 初めて食べたよこんなの! あ、こっちのスープもすっぱいけど、美味しいね、んー、パンもサクサクで美味しい〜〜〜〜!!」

「良かったな、アル。次はどれを食べてみたいんだ?」
「うーんと、うーんと、兄さん、どれがいいかなぁ」
「俺はこのフライがいい」
「うん、それ食べてみよう! 骨ごと食べてカルシウム取らなきゃね――――」



 エドの腹がくちくなるまで、アルの食事は続き、エドの味わいがそのまま流れてくるそのたびに、大いに喜んだ。





 食事の後片付けをしていると、気分が悪くなって横になっていたイズミがキッチンに現れた。
「具合はもういいんですか」
「ああ、日常的なものだからね。自分の身体だ。それぐらいは分かる」
 そうしてイズミが椅子に座り、こちらを見てくる。
「……良かったら、お茶をいかがですか? セントラルで買った紅茶ですが」
「いいね、淹れて欲しい」
「はい」
 湯が沸くまでに洗った皿の水気を布巾で拭き取り、食器棚に戻す。作った料理はすべて皆の胃の中に収まっていたので、後片付けはすぐに終り、とろけるような香りの紅茶を二人分淹れた。

 一口飲んだイズミは柔らかい笑みを浮かべ、に言う。
「美味いね」
「ありがとうございます」

 しばし、無言で茶を飲みあう。外はすっかり暗くなっていたが、月が明るいのか、白い壁が青白く見えて。影か少し動いた時、イズミが口を開いた。


「はい」
「……魂を扱うのも、魔術の領域か?」
「…………はい。一番高度な魔術になります」
 カップを置き、イズミがまっすぐにを見る。

「アルの記憶は呼び戻せるか」
「……できません。アルもまた、真理に触れた者。感覚の共有のようなものなら良いのですが、私の魔術では真理に対しての干渉力が無い」
「そうか」
「そして――――あなたにも。進行を遅くするのが精一杯です」
「やはり、わかるか」
「失礼ながら、お会いした時から。魔術師とはそういうものですが、非礼を許してください」
「いいよ。自分で選んだ結果だ。あるがまま、さ」
「…………ご迷惑でなければ、助けになることを許して頂きたい」
「それは魅力的だけどね、今はいい。時が来たら頼むかも知れんが」
「承知しました」

 頷き合い、温くなった紅茶を口に運ぶ。

「ああ、あとでうちの人とメイスンにも淹れてやってよ」
「――はい。ああ、エドが牛乳の煮出し紅茶なら飲める様になりましたよ」
「…………それは本人から聞いたよ。あんたがきっかけだったんだね」












 翌日の朝食もが作ったものだったが、アルの意志は昨夜のような状態にならなかった。
 ただ、いままでよりも食事の風景を見つめる様子が、ずっと柔らかくなったとは感じた。









「ああぁぁあああああああああ――――!!」



 医者に具合がいいといわれ、上機嫌で戻ってきたイズミの修行メニューには現実逃避したくなったが、開始早々、エドの物凄い顔と声に還ってくる事ができた。

「どうした? エド」

「……今年の査定……忘れてた……ッ!」
「査定?」
「国家錬金術師は年に一回、研究成果を報告する義務があるんです。それをしないと資格を剥奪されちゃう」
「何、いい機会だ、軍の狗なんてやめちまえ。どれ、私が連絡してやる」
「や――め――て――!!」

「……ちっ」

「ああもう、こうしちゃいられねえ。ちょっと行って来る!」
 言いながらジャケットを着込み、手袋をはめる。
「兄さん、南方司令部が一番近いけど、レポートどうするの?」
「汽車の中でテキトーにでっち上げる! 二、三日で戻りますから! じゃ!」

 嵐のようにあわただしくエドが出て行くと、イズミが呟いた。

「……あんなんで大丈夫かね」
「そうですよね! 兄さんが心配だからちょっと一緒に行って来ます!」
「行かなくていい。お前はここに残ってわたしとみっちり修行」
「ひぃいいい!?」

 兜の飾り尾を掴むイズミの邪悪な笑顔で悲鳴を上げるアルに、は同情の念を禁じえなかった。



 …………アルと一緒に数年振りに、修行で泣きたくなるのを知る由も無く。




 地獄と呼ぶに相応しい筋トレを終えると、昼食の時間になっていた。

「仕度は私がやるから、ちゃんと身体を休めてなさい」

 イズミの命令に従い、地面に腰を下ろし、壁に背中を預けては一息ついていた。
 そこに、疲労とは無縁のアルがやってきて、隣に座り込んで言う。
、大丈夫?」
「ああ…………久々に、きつい鍛錬だった」
 そう、口にしながらも、身体の中の疲労は徐々に取れてきている。魔術で癒した訳でもないのに。
(受肉していながらも太源から常に魔力が流れているか。――――ああ、本当に、人じゃないんだなあ)
 ため息をつくと、それを別な意味に受け取ったアルが話しかけてきた。
「本当に大丈夫? 午後は休んだほうが良いんじゃない?」
「問題無い。ただ少々――――懐かしくなっただけだよ。元居た世界でも、ここまでではないが、鍛錬に明け暮れていた日々を思い出してた」
 煙草を『閉じた空間』から出して火を点ける。
「そうなんだ……ねえ、の行ってた学校って、どんなところ?」
「魔術を習い、修め、研究するための学校だよ。基礎学習を習ってから、本科、特科に移る。基本は単位制度だな」
「独立の研究機関が、学校も経営してるんだっけ、ギルドって前に言ってたよね」
「ああ。学徒はみなギルドの戒めを受けて学ぶ。戒めを破れば――――良くて廃人、実験体」
「うわ…………厳し――」
「それでも数年に一人、そういうやつが出るんだよ。たいていは行方をくらまして逃げてるが」
は問題になったりしたことある?」
「私か? ……………………ふっ」
「うわあすごい黒い顔」






 結局、午後の修行はイズミの具合が思わしくないため中止となり、アルもも店の手伝いをする事になった。

 シグの指導の元、加工品作りをが手伝い、アルは店の前の清掃をしていた。

「うん、綺麗になったかな――――って、もー、誰だよ、こんなところにポイ捨てするなんて……」

 掃き終えたばかりの路上に落ちる、丸まった紙くずを拾い上げて動きが止まる。

「……誰か通ったっけ?」

 人通りの少ない手にした紙くずの間の文字に、何気なく目をやり――――紙を延ばして一文を読んだ。







 メイスンに掃除を終えたら出かけるといったきり、アルの姿が見えなくなった。三時のお茶になっても戻ってこないアルに、イズミはメイスンに言った。
「アルは?」
「まだ戻ってません…………まさか、誘拐されてたりして……」


「あはは、まっさかぁ」
「ですよねー」
 一緒にも笑うが、エドから聞いたトカゲ男の存在を思い出していた。














 良く分からない追いかけっこのあと、油断したら捕まって、良く分からない店に担いで連れて行かれた。
 昼間から暗くて、お酒と、煙草と、女の人ばかりの店内から、地下の倉庫に移動させられて、そこでやっと下ろしてもらえた。


 永遠の命が欲しいから、ボクの身体の秘密を知りたくて――――だって。


 でも、そう願いを言ったグリードって男の人は殺しても死なないホムンクルス。十分不死に近い存在なのに、強欲だからと笑って、ボクをほしがった。






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