が生まれて初めて乗った、汽車の乗り心地はなかなか快適であった。
 元居た世界で主な移動手段だった乗合、貸切の馬車はお大尽の依頼でもない限りは藁や敷き布が無いと、たちどころにお尻が悲鳴を上げてしまうような板張りの仕立てだったし、乗馬での移動だって一週間連続になれば皮膚が赤く腫れ、ひどい時には垢剥ける事だってあった。
 しかし、汽車の座席はみな羅紗に似た布を張り、少し綿を詰めてあるのだ。背もたれにも同じように。しかも一定かつ高速の速度でありながら揺れは定期的で、魔物や山賊の襲来もない。しかも乗客は朝一番だけあって殆ど無く静かなもので。
 等間隔で景色をさえぎる電柱にははじめ閉口していたが、しばらくすると町から離れたのか、間隔の幅が大きくなったため、馬車よりも大きな窓で世界と時が流れるさまを目の当たりにできる恩恵に感嘆の溜息をこぼした。
 所々で朝靄残る山林を野鳥が飛び交い、わずかに波長が短い陽光は夜気が残る朝露に濡れる森を、田畑を、山を徐々に照らしてゆく。木々も大地も太陽の呼びかけにいらえるように、ひかりを受け入れ、緑の葉で受け止めて輝きを増す。
「…………美しいな」
「……ここら辺は人が少ないからね。自然が沢山残ってると、世界ってやっぱり綺麗だよね」
 独り言は思いのほか大きく、アルは景色を を一緒に見やって言った。それほど高くはないがすっと通った鼻梁、ながく、密度の濃い睫毛に縁取られたいのちに溢れた翠の瞳。普段は意志の強さが眼差しをきつめに見せているが、無心に景色を眺めるさまは鋭さが失せた穏やかで、柔らかなそれになって。
 アルは を見ているのかそれとも景色を見ているのか分からなくなり、向かいに座すエドの冷ややかな眼差しに気づくことができたのは、 の問いかけを聞いてからだった。
「寝不足なのか、エド」
「――いーや。たっぷり寝たから眠くねぇよ?」
 半眼でおどけて返す。三白眼気味のエドの半眼はひどく楽しそうで、そう、悪巧みを考えている時に思わず笑みが漏れてしまう――あの楽しげな表情で答えてくるので、 は苦笑してそうか、と小さく答えた。
 エドの視線はアルから離れず、アルは見透かされたような気がして途端に落ち着きを失った。アームストロングに視線を泳がせるが、読書に勤しんでいて気付いてはくれず、いまだ視線が剥がれないのでたまらず兄に問うた。
「な、何だよ兄さん、ボクの顔になにかついてる?」
「いーやぁ」
「じゃあなんなのさ」
「ふっふーん」
 チェシャ猫の笑みに、アルはむきになって言ってしまった。
「へーえ、ボクはてっきり の隣に座れなくてつまらないからと思っちゃったよ」
「んなっ」
 思いがけない弟の反撃に、兄はあわてて言い返した。
「何でオレがそんなこと思わなくちゃならないんだよ!」
「むきになるって事は図星って事だよねー」
「んな事ねぇっての!」
「へえ、じゃあずっと の隣じゃなくていいんだ?」
「っ……ふん、別に」
 そっぽを向いたエドに、いや、 に対してアルは言った。
「じゃあ席はこのままで良いよね、
「? ……別に構わないが、どうかしたのか?」
「ボク、 と色んな話したいんだ。この世界のこと、知ってる限り教えておきたいから」
「――ああ、それは有難い」
 たおやかに微笑んだ に、アルはトランクからノートと万年筆を取り出し、トランクを即席の机に仕立てて簡単な地図を書いた。
「ウィンリィの家にあった世界地図は見た?」
「うん」
「これが世界で、ボク達のいる大陸はここで――」
 地図の一角を丸で囲み、指差して言った。
「ここが僕らの国。で、中心をセントラルとして東西南北のエリアに分かれてる」
「ああ。そこは理解している」
 円に近い楕円を更に描き、その楕円を五分割して東南東のやや左に小さく点を打つ。
「リゼンブールがここで、ここから北上して本線にぶつかって――――」
 中心に延ばした線に線路を示す横線を適当に書き込み、中央に少し大きな丸を書き込んだ。
「ここが中央。ボク達の旅の手がかり、 の手がかりがある国立中央図書館があるところ」
「…………なるほど」
「このままずっと乗っていけば、三日とちょっとで着くよ」
「たった三日で?」
「うん。特急列車は一日半で行くから、これでも遅いほうだよ。まあ、特急は本線しか走ってないし、本数が少ないから今回はかかる時間に差は無いけどね」
「…………」
「どうしたの? 気持ち悪い?」
「いや、馬車に比べりゃ大地と変わらんぐらい快適だから、それはないが――――やっぱり凄いな」
「あ、そうだ。中央には自動車があるよ」
「自動車?」
「うん。馬が動力じゃない、機械で自動的に動く車だから自動車」
「…………」
「乗り心地は汽車より悪いけど、それでも小回りが利くから移動には便利なんだよ」
 天を仰ぎ、思いを馳せる だった。
「――――さすがに想像の域を超える代物だな。実物を見て驚くことにしよう。うん。楽しみだ」
「中央に着いたら早速乗ってもらうことになるだろうな」
 読書中のはずのアームストロングが口を挟んだ。
「そうなのか?」
「うむ。我輩と一緒に来てもらわねばならぬ」
「え」
「なんでだよおっさん」
 いぶかしむ兄弟をよそに、 は嘆息と共に肯定する。
「……だろうなぁ」
「手段がこれしかないからな。また、記憶喪失にでもなってもらうことになる」
「嫌味かそりゃ」
「徒に口外せぬように忠告しているだけだ」
「身元保証人になっていただけるのかな?」
「無論だ。その方が安心できる」
「…………お世話になります」
 短いやり取りに話が見えないアルは に訊いた。
「中央についたら少佐とどこに行くの?」
「身元を保証する手続き。しておいたほうが安心できるだろ」
「どうやってするんだよ? ……その、 はここじゃ……」
 言いよどむエドに、アームストロングが答える。
「そこで我輩の出番だ。アームストロング家として身元を保証すれば、不法入国者や外国人として不当に扱われるような状況にはならん」
「そんなことできるの?」
「アームストロング家は代々将軍職に就くほどに、軍との関わりが深い。それぐらいの芸当は造作もない」
「名門って奴か……おっさんとこって、実は凄かったんだな」
「ふっふ、見直したか」
 蓄えた髭を撫ぜてアームストロングは笑った。珍しいものでも見るように彼を見上げた兄弟に、 は言った。
「手続きが終わったら追いかけるよ。国立中央図書館でいいんだな?」
「あ、ああ。第一分館にいるから。ティム・マルコー著書について訊けば分かると思う」
「了解」
 言って は煙草に火を点けた。煙は室内に立ち上るように見せながら、鮮やかなほど自然に窓の外へ流れる。喫って吐き出す煙も兄弟やアームストロングには届かず、 の髪を乱すことなく車外に流れていった。
 カモミールの残滓だけを感じたアームストロングは不思議そうに訊いた。
「ずいぶんと気遣って喫煙をするのだな」
「まあ、年の離れた弟二人がいるからね。注意していたらそれが普通になっただけさ」
「以前からの慣習、ということか」
「そういうこと」
 新しい煙草は好みに合ったようで、満足げに喫う に兄弟は思わず突っ込みを入れた。
「以前って」
「成人したのはおととい……」

「…………」

「不良〜〜」
「不良だ〜〜」


 陽はいよいよ高くなり、晴天の下を列車は走る。
 グリーンアテンダントによる車内販売はないが、弁当売りやお茶売り、マドレーヌ売りはいて、リゼンブール――イーストシティ間を往復しながら生計を立てている。
 旅慣れた兄弟とお茶売りは顔馴染みで、兄弟が女性を連れ立っていることを冷やかした。
「おやおや、今日はずいぶん華やかなお連れさんだね」
  は笑顔で会釈をして、お茶を受け取る。琥珀のお茶は甘みが強く、香ばしい香りがした。丁度、マドレーヌ売りも最後尾の車両にやってきて、バターたっぷりのマドレーヌを美味しそうに食べる を見て気を良くしたのか、売り物であるマドレーヌをおまけで人数分分けてくれた。

 朝食代わりのマドレーヌを平らげると、ディリズの駅が近いようで、住宅が増え、高層建築が見え隠れする都市部が見えた。

「うわー、ずいぶん高い建物が多いな」
「そう? これでもイーストシティに比べると田舎なんだよ」
「じゃあ目的地のセントラルシティは」
「首都だからね、きっと驚くよ」
「……もう充分驚いてるよ……」
 うなだれる に、エドは不思議そうに聞いた。
のところじゃそんなに高層建築は珍しいのか?」
「珍しいどころか、貴族や王族の城、神殿ぐらいしか三階以上の建物は無い」
「……へえ……」
「全くとんでもない異界見聞だ。こんなに度肝を抜かれることがたびたびあっては身が保たん」
 唸りを上げて煙草を咥え、更に続ける。
「こっちのルールを完全に理解しないと労働条件が合うのは……日雇いの肉体労働しか残らんなぁ。うう、鍛錬になるのはいいんだが変な筋肉つくのはやだなぁ」
 眉根を寄せてぼやく に、アルは訊いた。
「日雇いって……なんで?」
「情報を集めたいし、精霊との契約もしたいし、やりたいことは山積だが――先立つものが無いから、真っ当に働いて資金稼ぎをしなきゃな。まあ、身元保証人ができるから安心して働ける分ずいぶん気が楽だ」
 言って魔術で火を点け、嘆息と共に煙を吐き出す。
「どうしてそんな事言うの?」
「え――だって、中央までは確かに世話にはなるが、エドもアルもアームストロングも自分のことをする必要があるだろ? そんなに迷惑を掛けては」
「迷惑だったらウィンリィにもピナコばっちゃんにも会わせてねぇよ……なんなんだよ、てめえ一人で突っ走りやがって、そんなにオレ達と居るのが嫌かよ!」
 唐突に語尾を荒げるエドの言葉に、 は魔術で煙草を消し、居ずまいを正して答えた。
「そんなことはけっしてない。闖入者である私を快く受け入れて、助けてくれている。そのことに凄く感謝しているし、共に居ると楽しいことばかりだ。――――だけど、志ある者の歩みを止めたり曲げたりしてまで付き合ってもらうのは、心苦しいんだ」
 緩やかに汽車の速度が落ちて、駅のホームの端が見えてくる。アルは の顔を覗き込んで言った。
。確かにボクも兄さんも目的はあるよ。それは志といってもいいかも知れない。……でも、 と一緒に旅をすることで何かが止まったり、曲がったりすることは絶対に無いよ。だから、一緒に行こう?」
 アルを見上げて翠をかすかに揺らめかせ、 は問う。
「――いいのか?」
「ボクは一緒が良いな。兄さんもそうでしょ?」
 二人してエドを見る。
「ったりめーだ。おめーみてぇな世間知らずを放って置けるかってんだ」
 そっぽを向いてぶっきらぼうに言い放つ。
「ね。これからもよろしくね、
「…………ありがとう。こちらこそ、よろしく」
 差し出された鎧の手をかたく握り返す。体温を感じることはできないが、その手は暖かかった。アルとの握手をほどきながら、 はエドに言った。
「相当世話になるとは思うが、よろしく頼む」
 差し出された手を、 の顔を見やってからエドは口端を上げて応えた。
「嫌だって言っても離さねえからな。ちゃんと帰る日までは一緒だ」
「……ああ」
「ウィンリィとピナコばっちゃんに挨拶して、それからじゃねえと駄目だからな」
「……うん」
「そうじゃないとオレが殺されるから」
「――――そうだな、在り得るな」

 手袋越しの鋼の指がなぜかあついと感じるぐらい、エドの言葉はまっすぐで。
 ゆっくりと指を離すが、金色の眼差しに捕らえられた様な錯覚を覚えた だが、汽車が完全に停止したことを振動で理解した途端にそれは失せていった。
 数人の乗客が乗り込むと、会話に参加しなかったアームストロングが三人に言った。

「旅は道連れ、世は情けというではないか」
「…………美しく纏めたな」
「我輩も微弱ながら手助けをさせてもらうぞ」
「うん。ありがとう」




 ――――三十分の停車時間を終え、再び汽車はセントラルに向けて走り出した。発展した都市から徐々に閑静な住宅街、そして山間部へと入ってゆく。
 資金の杞憂は失せたが、当面の問題が残っていた。

「あ――、いかん。まだ問題があった」
「どうしたの?」
「煙草代は稼ぎたい……。エドが国家錬金術師になったのと同じぐらいの年から傭兵やってたからなぁ、手持ちの金が無いのはさすがに寂しい」
「あ――――ああ、じゃあ、 の術をオレ達に教えるってのでどうだ?」
「実用性のある代物じゃないぞ」
「それでも知識になるぜ、なあ」
「そうだね、またどこかで働くつもりなら、そうして欲しいな」
「――了解。じゃ、レートを決めよう」
「そうだなー、最初の講義はもうしてもらってるし、実演もあったから――これでどうだ?」
 右の手を上げ、指を三本立ててエドは訊く。
「ああ、それでいい」
「じゃ、とりあえず中央についたら銀行でおろすか」
「いや、その必要は無い」
 アームストロングの突然の制止に、 は首を傾げ、微笑を浮かべてアームストロングは言った。
「我輩にも支払う権利がある」
 小切手を取り出し、三枚に裏書きとサインをして金額を空欄で渡した。
「限度は二十万だ」
「にじゅ……」
「手数料は銀行によって違うからな、額面割れしないように確認を忘れるでないぞ」
 淡々と言うアームストロング。鮮やかな手段に見とれる兄弟をよそに、 は頭を下げて言った。
「ありがとうございます」
「何をするにも金は要る。必要経費だと思えばよい」
「うん」
 トランク以外の鞄が無いので、シャツの胸ポケットに入れてしっかりとボタンを留める。
「小切手ってそういう風にも使えるんだね」
「持ち合わせが無いときは重宝するなぁ……口座つくろっかな」



 心地よい振動とさわやかな風が絶え間なく訪れると、眠気は気軽に訪れる。大きくあくびをした は窓枠にひじをついて眠りの船を漕ぎ出した。目を閉じると捉えていなかった音も飛び込んでくるので、隣の車両で子供がはしゃいでいる様子が伺えた。
 エドが の居眠りに気付き、アルに起こさないよう注意している様子も分かって、うすく微笑を浮かべ、意識が深淵に落ちていくのを待った。






(風よ、世界を見せて――――)


 ――――空に、空気に意識が混ざる。風の流れるままに世界をめぐる。



 所在は分からないが、神殿めいた、だが神殿とは違う建築物の一角に風は開け放たれた窓から入り、本棚や机や鏡、そして横たわるヒトの表面をすべるように流れる。ヒトは赤い水を撒き散らして全く動くことは無かった。
 ――――そして、その傍らに立つそれにも風は踊る。人の姿を模したそれは黒尽くめで、伸ばした爪から滴り落ちる赤い水を一振りで振り払い、部屋を出て行こうとした――瞬間、振り返り空を睨みつけた。
 しかし、何も無いことを知ると振り返ることなく、出て行った。






「――っと!」
「あれ?」
「どうしたんだ?」
 風に同化していた意識が唐突に引き戻されて は飛び起きた。不思議そうにエドもアルも、アームストロングも自分を見つめている。
「……いやすまん。寝ぼけた」
 言って煙草に火を点ける。くゆる煙を何気なく眺めるが、すぐに魔術で排煙させた。カモミールの香りが鼻腔をくすぐり、見てきたものを思い出す。

(あれは――何だ? 人の様で、ヒトでは……ない。魔力ではないが、力に溢れていた)

 闇を纏った――いや、闇の化身と呼ぶにふさわしい。

(まあ、こいつらといればそうそう危険は……)
 ないとは確信が持てず、同行してくれる彼らの目的である賢者の石について殆ど知らないことを思い出した。

「エド」
「なんだ」
「賢者の石とはそもそもどのような代物なんだ?」
 真剣な表情の に、エドは頭を掻いてから口を開いた。
「錬金術の基本は等価交換だって話したけど、賢者の石は、引き換えに出て行く存在を最小限に止めるちからを持つんだ。だから行う錬金術が大掛かりであるほどメリットが大きい」
「相応の犠牲が必要になる状態を石の力で補う――か。実物は見たことはあるのかな?」
「未完成品ならあるぜ。液状でもあるし、細工して固形にもなる。ふしぎな赤い石だよ」
「赤い石……材料の情報はあるのか?」
「いや、全く無い。……何か、知っているのか」
 一拍置いて は答える。
「――似ているかはわからんが、増幅器になる石を知っている」
「なん――だって?」
 声を裏返してエドは を見た。対する は身に着けている小さめの紅く丸いピアスを示し、期待と驚愕の眼差しを受けてゆっくりと話し始めた。
「これが依石(いせき)というマジックアイテムでね、――魔術師や精霊神官が製造するもので、この中に精霊を宿し、使役する。この世界に来た途端に宿していた精霊はいなくなってしまっているが、魔術が扱えないものでも使用可能だし、魔術師が使えば術の増幅器になる。原料は血液で、より力のある者の血液ほど、質の良い依石になる。血液が原料だから赤い色になるんだが――――似て、いないか?」
 問われて再び のピアスを見つめる。依石と呼ばれた石は鮮やかな紅で、マルコーのところで見た賢者の石とは色も形状も違うが、リオールで見た未完成だった賢者の石は似ている気がした。
「…………わかんねぇ。なあ、 は依石をつくれるのか?」
「つくれるが、さすがに今すぐは無理だよ。工房もないし」
 苦笑した にアルの問いかけが続く。
「じゃあ、環境が整えばできるんだね?」
「……この世界で鉱石の精製が個人で許可されているなら、な」
 そしてエドとアームストロングを見る。対する二人は軽く唸って黙り込んだ。
「え、できないの?」
 アルの素朴な疑問に、エドが答えた。
「鉱石の加工、精製には劇薬を扱うことがあるから基本的に申請して、許可が下りないと実行できねえ。どこかの工房を借りるってこともできるが、国家錬金術師に気前良く工房を貸してくれる奴はそうはいねぇしな」
「そんなぁ」
「我がアームストロング家にも鉱石の加工を行っている錬金術師はあいにく無しだ。母上の馴染みの宝石工房でも受け入れてくれるか……難しいな」
 腕を組み唸るエドとアームストロング。アルは右往左往し考えをめぐらすが、結論は同じで同様にうなだれた。
「…………すまん、余計な話だったな」
 気落ちした の言葉に、エドはあわてて否定する。
「んなことねえって。中央についたらさ、その作り方説明してくれよ。それで充分だ」
「そ、そうだよ。もしかしたらボク達が求めているものと同じ方法かもしれないんだし」
「――わかった」
 会話を打ち切るように は窓の外を見た。なだらかな平地を見下ろす眺めとゆるい気圧の変化に、水の香りがかすかにした。
「なあ、この先は大きな渓谷があるのか?」
「あ――うん。しばらくは渓谷沿いを走るよ。今の時期は緑がきれいなんだ」
「そうか……うん。契約その二といこうかな」
「契約って…………精霊との?」
 席を立った にエドが声をかける。
「ああ。水の精霊とな。本当は海が相応しいが、そう贅沢はいえないし。……見に来るか?」
 うん、といいかけたアルを小突いてエドが応える。
「いや、そこは狭いから邪魔したくねえからいいよ」
「ん、じゃ済ませてくる」
 言ってデッキへと姿を消した。

「兄さん……どうして止めるのさ」
「自分が元の世界に戻れるかもわからねえ時に、人の心配するような奴だぜ、そりゃ、突っ込んで聞いたオレも悪いんだけど、たまには一人で居たいって気分にだってなるだろ」
「……そうだね」

 デッキに出ると勾配がきつくなって、柱にもたれた背中に重みがかかる。
「ちょっとやりすぎたかなぁ」
 嘆息して空を仰ぎ見た。自らの知識をひけらかしたい訳ではない事を、あの兄弟は理解してくれているだろうが、ぬか喜びをさせてしまったことは事実で。
 つい同行を呼びかけたが、エドの制止に感謝していた。
 眼下には緑濃い森の間に、切り立った崖を縫う様に深く青い水が流れ、いくつもの滝が虹を連ねて登場すると、大きな瀑布が現れ、手を伸ばせば飛沫が届きそうなほどに豊富な水量を湛えていた。
 海とはまた違う眺望に囲まれ、 は水霊を喚んだ。

『清廉なる水の御子よ。我が声に応えよ』

 流れ落ちるままになっていた飛沫の一部が水の帯となり、蛇のような動きで の周りをめぐり、いらえた。
『風のから聞いてるよ、君が招かれた魔術師だね。僕はワイズ。よろしく』
『ああ。我が名は 。以後お見知りおきを』
 会釈する に、水霊は の手を取り、指先を水の中に招き入れた。
『異界の人だからね、水にあわないこともあるだろうから、予防しておくね』
『…………お気遣い、痛み入る』
 指先から細胞の一つ一つに、この世界で一番清らかな水が染み渡る。心地よさに身を任せていた に、水霊は依石に触れて言った。
『君のその石は面白いね、僕らのための場として用意してくれたのかな?』
『ああ、元の世界で水霊と風霊に宿ってもらっていてね、名を――――あれ?』
 水霊シーディアス、風霊ファルザスティア。二つの真名を口にしようとすると声帯がまるで他人のそれになったように動かず、震えない。
 口を動かすが声の出ない に、水霊は言う。
『どうも世界が真名を伝えることを拒んでいるみたいだね』
『…………そのようだな』
『まあ、いいんじゃない? 僕と契約しなおせばいいんだし、大地のも炎のも待ちかねてるし』
『――――宿っていただけるのか?』
『僕らは普段、人の世界には立ち入れないけど、君という仲立ちがあればすぐ近くに居られるからね。君さえ良ければそうして欲しい。水霊ディズワイズが望んでいることを』
『――分かった』
  は左のピアスを外し、手のひらに載せて言葉を紡いだ。
『清なる御子ディズワイズ――我が血脈に連なる世界に宿れ』
 瞬間、デッキが水で満たされる。あらかじめ膜が張られたかのように、一滴もデッキの外に水は漏れることなく、 を包み込む。水中のため広がる髪を払うことなく、手にしたピアスに口付けた。
の名において今ここに――契約する』
 ディスワイズのいらえが水を震わせ、デッキを満たしていた水が瞬時に依石に吸い込まれていく。水につかり、全身を濡らしているはずの の身体の、どこにも水気は残っていなかった。
『――うん。思っていた通り、居心地がいいね』
 依石に宿ったワイズの声が にだけ響く。
『そういっていただけると魔術師冥利に尽きる。異なる世界の御子にも受け入れられるほど――私の依石はよい出来なのだからな』
 心話で応えながら微笑む はピアスを付け直し、渓谷を見下ろす。再びめぐってきた自らの力を実感して、水の流れが近いうちに汽車から遠ざかることを理解した。
『ワイズ、この先はまた山ばかりになるのか?』
『そうだね――――ああ、丁度いいや。この先、穴をくぐるよ』
『穴?』
『人が作ったんだけど、この乗り物のためにね』
 ワイズの言葉と同時に勾配を上りきって、大きなカーブの先に汽車の先頭がトンネルに入っていくのが見えた。
『あそこで大地のに挨拶をしたらどうかな』
『…………そうだな、この先、洞やダンジョンが無さそうだし』
『じゃあ先に声をかけてくるよ』
『頼む』
 ワイズの気配がトンネルに消えると、汽車が吐き出す黒煙が濃くなり、 は風霊ステアを喚んだ。風の膜に覆われ、黒煙舞うデッキに立っていても苦しさは全く無かった。視界すらさえぎられるようになるほどトンネルに近づいたとき、エドが顔を出して怒鳴った。
「おい! 煙がすごいから中に入れ!」
「ごめん、これから大地の精霊と契約するから、エドは中に入っててくれ」
「…………煤だらけになってもしらねぇからな!」
 勢い良くドアが閉まり、嘆息すると同時にトンネル内部に入っていった。



「ったく……」
 薄闇の中、渋面のエドにアルが声をかけた。
「あれ?  は?」
「あいつなら大地の精霊と契約するっつってまだデッキに居るぜ」
 への字口でどっかと椅子に腰掛け、ぼやくように答えるエド。
「ええー、真っ黒になっちゃうよ」
「しらね。大丈夫なんじゃねえの?」
「…………なんで怒ってるの?」
「オレのどこが怒ってるんだよ!」
 噛み付くエドにアームストロングが言う。
「心配したのにつれない態度だから癪に障ったのだろう」
「うるっせえっての!」
「図星なんだね兄さん……」


 トンネルを抜けるとすぐに は戻ってきた。煤で充満した外に居たのに一片も汚れは無く、涼しげに終わったよ、と声をかけてきた。




 ――――リゼンブール始発の列車は夜通し走る。特急列車以外で二十四時間操業の汽車は始発の一本だけであり、乗務員の交代や休憩のために停車時間が最大で二時間と長い時もあるが、定められた区間を一往復する。たとえ片道約千二百キロでも。
 たいていの乗客はその日の夕刻には駅を降り、宿に止まり、また翌日汽車に乗るということを繰り返していくのだが、旅を急ぐエド達はそのまま車中泊をすることにした。 を気遣って宿を取ることをアームストロングは提案したが、元居た世界での馬車での強行軍のくだりを聞かされ、彼女がはるかに旅慣れたことを理解したので、めいめいで空いている座席に横たわり、休息を取る形になった。
 女性である に危険が及ばないよう、向かいの座席にはアルがつくことになった。魂のみであるアルには、食事も休息も必要とせず、護衛役としてうってつけであった。無防備に眠るアルの呼吸を座席越しに聞きながら、腕枕をして横たわる は携帯灰皿をそばに置き、月見酒ならぬ月見煙草を楽しんでいた。
「まだ、寝ないの?」
「これを喫い終えたら少し寝るよ。この汽車という乗り物の振動は定期的で、眠気を誘う。馬車じゃ考えられないことだ」
「一週間乗りっぱなしって、どうしてなの?」
「仕事で、ちょっと遠出――片道十日かかって着いて、仕事はすぐに終わったんだがね、相棒がダブルブッキングをやらかした。出発日が一週間後の朝だった……」
「間に合わせるために、急いだんだ」
「私一人なら裏技で間に合うことはできたんだけどね、ペアで仕事をしてるからさ、そうもいかなくて……そのとき使った必要経費で稼ぎはプラスマイナスゼロだったよ。平坦な大地でも身体の錯覚で頭が勝手に揺れる相棒を見れたのは面白かったけどな」
 歯を見せて笑う に、エドはぽつりと言った。
「……帰れるといいね。ボク達にも目的があるように、 にも、大事なものがあるもんね」
「うん。まあ運が良ければ――できればこの世界と向こうを自由に行き来できる術でも編み出せたら最高だな」
「…………ちょっと思ったんだけど」
「なに?」
ってさ、実はすっごい力のある魔術師なんじゃない?」
 アルの問いに、 は一口喫ってから答えた。
「すっごい、かは別として……まあ、自負はしているよ。魔術師にもランクがあってさ、その最高ランク『誓』に去年認定されたからな」
「やっぱりすごいんじゃない」
「どうかな……伝説じみた人を知っているし、その人に比べればやっぱりまだまだだよ」
 最後の一口を終えて、携帯灰皿に落とした灰も一緒に魔術で煙草を消す。仰向けになって言葉を続けた。
「今はまず精霊との契約が先だよ。精霊にたのむことが多い私の魔術は、それが無いと半減してしまっているから……。風、水、大地は終わったから、最後は火だけだ」
「契約するときって、その元素が多いほうがいいのかな」
「そう。火だけはラッシュバレーの西にある火山帯に行くつもりだ……いいかな?」
「もちろんだよ。兄さんもその方が嬉しいって。ね」
「……ありゃ、ばれてた?」
「寝息じゃないからな」
「うわー、狸寝入りできねぇな」


 ――――翌日の午下がりに、汽車はイーストシティの駅に着いた。

 ディリズの町よりはるかに近代的な景観と、駅の広さに は最初は驚いてばかりだったが、停車時間が一時間二十分あると聞くなり構内の探検に出かけ、売店にあったミルクティーとライ麦パンのサンドイッチを戦利品に帰って来た。
 スパイスを使ったミルクティーを気に入ったアームストロングにチャイの作り方を伝授したり、具のサラミがことのほか辛味が強く、サラミを避けて食べるエドが香辛料の強い食べ物が苦手だと分かったり、食後にトランプで遊んだりした。 の世界にもトランプに似たカードゲームがあり、時間は瞬く間に過ぎていく。あと数分で発車時刻となると、 の世界でのゲーム、ババ抜きで白熱していたエドに上司について尋ねた。
「エドの上司がいる司令部がある駅だよな、ここ」
 アルから回ってきたジョーカーを無造作に混ぜて、エドに示した。
「――まあな」
 無意識のうちに新たに追加されたジョーカーの周辺で指を泳がせ、見事ジョーカーを引き抜き、触れたくない話題と一緒に苦々しく答える。
「エドワード・エルリックの直属の上司であるロイ・マスタングが東方司令部の大佐を務めているのでな、本当は挨拶をしておいたほうが良いのだが」
 ダイヤの三を持っていったアームストロングの言葉に、エドはしかめっ面で言った。
「けっ、あいつの所に を連れてってみろ、絶っっ対口説くぞ」
「は?」
「かもね、大佐って凄い女の人好きだし」
 一番カードの減りが早いアルはまた一つペアを作り、あと数回で上がりそうだった。
「……マジで?」
 目を丸くして は兄弟に問いかけ、エドもアルも力強く頷いてみせる。そのままアームストロングに視線をうつすと、苦笑を浮かべて答えてくれた。
「……たしかにロイ・マスタング大佐は些か女性との醜聞が多いと聞く。そしておそらくそなたを見れば声をかけずにはいられないだろう」
 同姓からも女好きの評価を下されるエドの上司、ロイ・マスタング大佐。 にはどうしても相棒のイメージが頭から離れず、うなだれて呟いた。
「…………うん。礼を欠いてしまうが今回はパスしよう。足元を固めてから会うことにしよう」





「――――っぷしっ」
「あら大佐、風邪ですか?」
 イーストシティの東方司令部、パティオのテーブルで庶務課の新人エミリーと談話を交わしていたロイ・マスタング大佐。薫風舞う季節でのくしゃみにエミリーは気遣うが、マスタング大佐は苦笑して答えた。
「いや――――多分、誰かが私の噂でもしたのだろう」
「彼女を取られた人の愚痴かしら?」
 なかなかに辛辣な物言いに空笑いをしてしまうが、めげずに切り返した。
「できれば君の心のささやきが届いたのだと思いたいね」
「まあ」
「どうだろう? 真相究明のために今夜付き合ってくれないか?」

「そうですね、魅力的な提案だと思いますが――――勤務中は謹んでいただけます?」

 言を継ぐは聞きなれた声。後頭部に鉄の感触。安全装置が解除され、劇鉄が落ちる音。




 リザ・ホークアイ中尉に連行され、ロイ・マスタング大佐は執務室に戻っていった。







 夕刻、ウィンリィは寝過ぎで痛む頭をさすりながら一階に降りてきた。
「う〜〜〜〜、おはよーばっちゃん」
「なにが『おはよー』だ。こんな時間に」
 洗濯物を取り込みながらピナコは呆れ顔で言った。
「うわぁ。丸一日寝ちゃった」
 回らない頭に寝ぐせだらけのしかめっ面で時計を見れば、エドたちを見送った時間は既に昨日の事になっていた。おろしたてのテーブルクロスを抱えピナコは告げる。
「作業台片付けておきなよ」
「あー、エドの腕を直してそのままだっけ」
 ボルト、ナット、ウエス、レンチ、スパナ、ドライバー、機械油。
「ほんとにも――あいつが来るといつも大戦争よね」
 六角レンチ、精密ドライバー、ノギス、ペンチ、ニッパー。
「徹夜はかんべんしてほしいわ…………」
 ――――A-8とラベルのついたネジ。


「…………あれ?」

 散らかった工具類。散らかったネジ。散らかったままのウィンリィの思考。





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