二日後の午後三時ちょうど、汽車はセントラル駅に到着した。タラップを飛び降りてエドは駆け出し、後ろをのんびり歩くアルに言った。
「早くしろよアル!」
「兄さん、そんなに急がなくても……」
「うむ。図書館は逃げる事はないぞ」
「いいから、早く!」
 急かすエドに、は呼びかけた。
「切符を持たずに駅は降りれないんじゃないのか?」
 諌める口調にエドは歩調を弱め、口の中でぼやいてからを見た。

「よく判ったね」
「船でも乗合馬車でも切符を使うことがあるからな」

 近代美術の著名な建築家のデザインという構内は、近代的な機能を備えつつもスロープや装飾にクラシカルな色を添えていることで、洗練された印象を観光客に、馴染みながらも飽きさせない印象を地元住民に与えていた。もまた小さく口を開いたまま辺りを見回し、人の多さと熱気と異界の中心地に翠の瞳を好奇心いっぱいにして見惚れていた。
 ふいにと視線が絡み合い、は極上の笑顔で応えた。その笑みがあんまり眩しく見えたので、エドは照れ隠しに大声で言う。
「来たぜセントラル!」





 改札口を出ると、二人の軍人が歩み寄り、アームストロングに敬礼して言った。
「アームストロング少佐、おむかえにあがりました」
 黒髪短髪の泣き黒子が印象的な妙齢の女性と、実直そうな金髪の青年二人組みの挨拶に、アームストロングは応える。
「うむ。ごくろう。ロス少尉、ブロッシュ軍曹」
 軍人然としたアームストロングを見上げるエドたちに、ブロッシュ軍曹が声をかけた。
「おっ、こちらが、鋼の錬金術師殿でありますか」
 アルを見上げ、口々に挨拶し、賞賛する。
「マリア・ロスです。お会いできて光栄です!」
「デニー・ブロッシュです。いやぁ、二つ名通りのいでたち! 貫禄ですな!」
「いえ、ボクじゃなくて……」

「え?」
「あっちの……ちっこいの?」

 何度言われても慣れない、消して慣れたくない言葉にエドは二人に飛び掛ろうとするが、アームストロングに首根っこを掴まれ、宙に浮きながら抗議した。
「どぅあれがスーパーミジンコどチビだぁ!」
「こっ……これは失礼いたしました!」
「ちっこいなだとど、いえ、その――」
 口ごもるブロッシュは視線を泳がせ、アルの隣で苦笑するを見て声をかけた。
「おや、君は――」
「はじめまして。といいます」
 少女とも婦人とも取れる女性が優雅に差し出した手を、そのまま握り返し、小さく頷くが、あわてて手を離してアームストロングを見上げた。
「――ああ、旅の途中で出会った者でな、錬金術師なのだが、出自に関する記憶のほとんどを術の失敗により失ってしまっていて、不憫に思い同行させている」
「そうだったのですか。ならば一言先に教えていただければそのように計らいましたのに」
 ロスが応え、に歩み寄り手を差し出す。
「よろしくね。わたしはマリア」
でいいですよ、マリア少尉」
 女同士微笑で握手を交わすと、アームストロングが口を開いた。
「では我輩はこのままと共に、中央司令部への報告と父上に挨拶に赴くゆえ」
 アームストロングの言葉にエドは喜色満面で手を振り応える。
「え? 何? ここでお別れ? おつかれさん残念だなぁバイバイ!!」
「我輩も残念だ!! まっこと楽しい旅であったぞ!! また後ほど会おう!!」
「ぎゃぁああああああ!!」
 男泣きのアームストロングは渾身の力でエドを抱きしめ、ばきめきべしょ、と嫌な音があたりに響いた。

「あとはまかせた!」
「はっ!」

 魂が抜けかけたエドをアームストロングから受け取ったは、ロスとブロッシュから死角となるアームストロングの影でエドを魔術で癒す。痛みから脱したエドはアームストロングの言葉に感づいて言った。
「え――、まだ護衛つけなきゃならないのかよ――」
「当然である!」
 至極まじめに答えたアームストロングに、はつい聞いてしまった。
「護衛?」
「あ――――そっか、知らないんだっけ」
 気まずそうにエドが言い、アルと顔を見合わせた。アームストロングはロスとブロッシュに一瞥してから口を開いた。
「その話は車の中で話そう」
「……わかった」




 一行は二手に分かれ、兄弟はロス少尉、ブロッシュ軍曹と共に国立中央図書館へ、はアームストロングと共に中央司令部とアームストロング家へと向かうことになった。




「これが自動車かぁ……」
 クロームとステンレス、そしてニッケルで構成した製鉄を旋盤とプレスでフォルムをかたどり、さび止めと塗料を重ね塗りしたボディ。車輪はやや細く、多数の細かなホイールが加重を分散させる役割を担い、シャーシはボディに半ば埋まるように取り付けられていた。
 ボディの構造は4人程度が乗れる馬車の形状と室内に似ていたが、運転席が表ではなく、前方座席の右側に設置されて、二本のレバーと丸い輪が運転席の前に設置されていた。硝子をはめ込んだ目玉のような照明の傍にはしるスリットから、ひっきりなしに唸り声――四気筒八ストロークのエンジン音が響き、ボディ後部からはガソリンのきつい匂いと煙がかすかに立ち上っていた。解析したい欲求にかられたが、アームストロングに促されたは乗り込んだ後部座席から観察を続けることにした。
 軍お抱えの運転手がどちらまで、と問いかける。
「まず自宅へ戻るが――――その前にハッシュに寄ってくれ」
 ドアを閉めるアームストロングが行き先を告げ、運転手のいらえとともに車は走り出した。
「ハッシュ?」
「我がアームストロング家馴染みの仕立て屋だ。父上に挨拶をするには、その格好では些か砕けているのでな」
「…………確かに。名家のご当主に初めてお会いするにはカジュアルすぎるな」
 ウィンリィから譲ってもらった服は、さすがにスーツもドレスもなく、苦笑しては同意しかけるが、声を潜めて尋ねた。
「ってちょっと待て、受講料でも足りないようなところじゃないだろうな」
「心配はいらん。服代は追加分で賄う」
「いやそれって貰い過ぎだから」
「それ以外の理由をつけてほしいか?」
「…………了解」
 突飛も無いアームストロングの言葉に、は渋々承諾し――――疑問を口にした。
「ところで、エドたちに護衛がつく事態の理由を訊いてもいいかな?」
「――――最近、国家錬金術師ばかりを殺害している男がいるのだ。名前が分からず、ただ額に大きな向う傷を持つ男のため、傷の男と呼ばれている」
「傷の男」
「先だってエドワード・エルリックがその傷の男に襲われた。あと一歩のところまで追い詰めたが逃してしまってな、その時に機械鎧を破壊され、アルフォンス・エルリックも傷を負ったために機械鎧の修復をするためにリゼンブールに赴いたのだ」
 余計な心配を与えないため、イシュヴァールとの確執のくだりをアームストロングは伏せた。
「…………襲撃を考えての護衛ということか」
「そういうことだ」
 絶え間無い細かな振動と、時折小石に乗り上げる衝撃は馬車の感覚に少し似ていて、それきり口をつぐんだはセントラルシティの景観を魔術師の目で眺めた。最初から人が集まる肥沃な土地柄か、何らかの資源が豊富だったのかは分からないが、都市はかなり入り組んでいて、地図が無いと迷いそうな状態だった。
 薄い仕立ての窓ガラスに映るセントラルシティはの世界では殆ど無い五階建ての高層建築が多く、巨人の国へ訪れた気分にさせた。






 来る度にどこかに新しいビルが建ち、見覚えのあった店舗が真新しい装飾で営業している。時代が動くさまを車内からぼんやりと眺めていると、ロス少尉が口を開いた。
「東方司令部の報告によると――傷の男もまだ捕まっていないそうですし、事態が落ち着くまで、私達が護衛を引き受ける事になってます」
「少佐ほど頼りにならないかもしれませんが、腕には自信がありますので安心してください」
 ブロッシュ軍曹が笑顔で言を継ぐ姿に、エドは四六時中見張られる事態に嘆息した。
「しょーがないなぁ……」
「よろしくお願いします、だろ。兄さん」
 アルの諫言にロスとブロッシュが驚きの声をあげた。
「兄……!?」
「ええと……この鎧の方は弟さん……?」
「はぁ」
 呑気に答えたアルに、ブロッシュは素朴な疑問を口にする。
「それにしても……何故、鎧のお姿で……?」

 それはね。

「趣味で」

 兄弟の異口同音に、護衛二人は小声で力いっぱい突っ込みあった。
「趣味って!? 少尉殿、趣味って何でありますか!?」
「わからないわなんなのこの子たち!!」
「あ!! 見えてきた見えてきた!」
 話を逸らすため兄弟は力いっぱい声を上げ、律儀なロスは目的地の説明を始めた。
「ああ、あれが国内最大の蔵書量を誇る国立中央図書館です。全蔵書を読み切るには、人生を百回くり返しても――まだ足りないと言われている程です」
 豪奢なオペラハウスや美術館と見紛うほどに屋根は高く、装飾を施した支柱が壁面からレリーフのようにせり出し、水平線とシンメトリーを強調したルネサンス建築が本館だという。他にも大小の同じような造りの建物が周囲に存在していた。
 敷地内に入り本館の横に車を停め、先に降りて兄弟を案内しながら説明を続ける。
「そして――その西隣に位置する建物が、お二方の目的とする第一分館」
 本館を背にして、手入れの行き届いた中庭を通りながら更に続けた。
「ここには様々な研究資料や過去の記録、各種名簿等が収められて……いるの……ですが……」

 途切れがちになる言葉。炭化し、倒壊した木材が水浸しになり、焦げ臭い匂いが鼻をつく。由緒ある建物だった残骸が二人の前に現れ、立ち入り禁止の虎ロープが工事用の赤いライトスタンドに張り巡らされて進入を拒んでいた。

「つい先日、不審火によって、中の蔵書ごと全焼してしまいました」

 過程はどうあれ、手がかりが文字通り灰になってしまった結果に、声が出ない。

「燃え、たって」
 身体から搾り出すようなアルのつぶやきに、ブロッシュが答える。
「本だけに火の回りが早くて、あっという間だったそうです」
「……犯人の検挙は」
「痕跡や遺留品が無いため、不審者の聞き込みを続けていますが……迷宮入りになる可能性が」
「……」
 黙したままでエドはロープをまたぎ、焼け残った壁に手を当てた。
 書籍の錬成など、著者でさえ完全に復旧することは難しく、既に他界している事も多い。風に流された燃えかすが足元にかかり、拾い上げると人名の一部らしき文字がかろうじて判別できた。
 炎で焼け割れた窓ガラスの向こうは黒い塊ばかりで。

 奥歯を噛み締め、焼け跡を凝視しているエドに、アルは声をかけた。
「……マルコーさんの本、ほんとにここにあったのかな」
「本人の証言だぜ」
「でもさ、隠したときからだいぶ時間が経ってるし、他のところに移されたかもしれないよ?」
「……そうか、目録を照会して見るって手があったな」
「まずは本館に行ってみようよ」
「よっし……!」
 兄弟が突然走り出したため、ロスとブロッシュは慌てて後を追った。








 採光とディスプレイされた商品を、効果的に見せるための大きな一枚ガラスが目を引く入り口を入り、店内の奥にある両開きの扉の向こうでは、小さなファッションショーが行われていた。間接照明が昼間でも使用され、柔らかく室内を彩る。目の前のステージを優雅に歩くモデルたちの纏うドレスはトラディショナルなデザインでありながら、コケティッシュなアクセントを加えているため硬質な印象を与えない。どれもとびきり質の良い布をふんだんに使い、襟元や袖口に効果的に細やかな刺繍やレースを施していた。
「本来はフルオーダーにするべきなのだが、時間がないのでな、これで我慢してもらおう」
「…………いや……これで充分だ……」
 最高級のプレタポルテを――アームストロング家当主に会うためだけに――品定めのためにモデルを、いや商品をステージ前の特等席で眺めるとアームストロング。傍らには支配人が二人の様子を伺っていた。中央でも老舗の部類に入るハッシュは、アームストロング家が代々愛顧してきた店であり、支配人は当主の長男と共にみずぼらしい身なりで訪れたもセレブとして扱った。
 ハッシュでは購入手順に決まりがあり、デザイナーと首っ引きのフルオーダーやある程度の目星が無い限りは、支配人に意向を伝え、意向を反映した服をモデルが着て――――
「我輩はあの空色のドレスがいいと思うのだが」
 気に入ったモデル――服を示し、購入する。
 アームストロングの目にとまったドレスはアルパイン・ブルーを基調とした細かなストライプの生地にレースを縫い合わせた七分袖のワンピース。腰のラインを強調し、襟が大きく、胸元の切れ込みは意外と深いが、色味と他の箇所の仕立てがかっちりとまとまっているため、清楚な印象をもたらしていた。少女趣味に陥りがちな色を大人の女性のためのドレスに上手に使っているそれを、も目をつけていたので頷き返した。
 アームストロングが振り返れば、支配人はすぐ傍で彼の言葉を待っていたので、商品を示せばモデルがの前までやってきて声をかけた。
「お直しをいたしますので、採寸させていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。お願いします」
 モデルに付き添われてフィッティング・ルームに向かうを見送り、アームストロングは支配人と共にラウンジで待つことにした。

 サービスのコーヒーと当たり障りの無い会話で待つこと十分。先に別の服に着替えたモデルが現れ、後に続いてが顔を見せた。
 試着のためにサイドに結わいた髪を肩に掛け、ごく淡いオフホワイトのショールを羽織り、靴もお揃いのストライプの布張りで、足首で留めるローヒールのサンダルに履き替えて、所在無げにアームストロングを見やっていた。
「うむ。良く似合っているぞ」
「……あはは、ありがと」
 満足げなアームストロングの言葉に、耳を赤くしたを、別のスタッフがメイクルームに連れて行く。

 小切手で支払いを済ませ、更に待つこと十分。

「お待たせいたしました」

 スタッフに促されてはゆっくりとアームストロングの前に歩み出た。
 こちらの世界に来てから一度も結い上げたことが無かった、長めの髪をおだんごに結い上げうなじをあらわにして、前髪を軽く上げてから斜めに流していた。素肌でも充分白いかんばせはローズのチークで華やかさを、グリーンとライトブラウン系のアイシャドウで柔和を、グロスが主体のリップで可憐さを演出し、まるで見知らぬ淑女のいでたちでアームストロングに微笑んでいた。
 あまりにもアームストロングの視線が真っ直ぐなので、は苦笑して訊いた。
「……変かな?」
「いいや、実に美しくなったのでな、見惚れていた」
 ごく自然にをエスコートして、店を出る。後に続く支配人がの着ていた服とサンダルを入れたバッグを待機していた運転手に渡し、運転手は見違えるほどに美しくなったに一瞬目を奪われるが、すぐに後部座席のドアを開けた。
 おまけなのかあらかじめセットだったのかは不明だが、乗り込む直前に支配人から渡された同じ仕立ての小さなポーチを膝に置き、服がしわにならぬよう注意して浅く腰掛けたは気付いて問う。
「この時間にご当主はいらっしゃるのか?」
「うむ。父上は将軍職を退いてからは悠々自適の毎日でな、出発前にあらかじめ連絡を入れておいたが――そなたのように可憐で美しい女性が困窮していると知れば保証の一つや二つ、快諾しようと思われるはずだ」
 支配人が頭を下げたので、二人は会釈して、車が動き出してからは続けて言った。
「さっきから思ってたんだが……口がお上手でいらっしゃいますわね、アームストロング少佐?」
 男勝りな言葉からがらりと洗練された口調に変え、はたおやかに微笑んだ。
「口の悪さは変わらぬかと思っていたが、心外ですなレディ。我がアームストロング家では代々、女性を心を込めて褒め称えることが出来て初めて一人前の男として認められるのですぞ」
 お互い含み笑いのままで言葉遊びの会話を続ける。
「まあ、それは失礼を。……では事が終わるまではこのままがよろしいかしらね?」
「無論ですレディ。せっかくの装いも麗しき見目も台無しになってしまう」
「少佐のお気持ちは分かりましたわ。失礼の無いよう、精一杯務めさせていただきます」

 言の葉の裏側の意味を知るものは二人だけで。

 車は一路、アームストロング家を目指して街中を走っていた。






 軍の統治下に置かれたばかりのリオールに発生した暴動。主要管理を任されている東方司令本部および支部では、鎮圧遂行が最大の懸念ではあるが――――それだけではお仕事は終わらず、傷の男に破壊された市外の修復を担当する業者、事件現場警備と警邏、周辺住民の仮住まい、それに伴う登記変更各種手続きにロイ・マスタング大佐たちの部隊も大忙しであり、部隊の紅一点、リザ・ホークアイ中尉とジャン・ハボック少尉とともに手続きに大忙しのときに――――

「マスタング大佐」
 視察の名目で取り巻きをという名の部下を連れてやってきた男は、廊下で彼を呼び止めた。
「や、これはハクロ将軍」
 ロイはすぐに歩み寄り、ハクロ将軍――階級は少将――に挨拶を交わす。
「お怪我のほうはもうよろしいので?」
 トレインジャックの折に耳たぶに穴が開いた左耳を、真新しい滅菌カバーが覆い隠す。
「仕事には差し支えない。それよりも例の傷の男の件だ」
「は」
 ロイだけを傍に寄せて数歩部下から離れて少将は続けた。
「たった一人の人間にここまでかき回され、しかもかなりの人数を動員しているにもかかわらず……未だ捕まらないとは、どういう事だね」
「はっ、引き続き全力で捜査しますので、今しばらく時間をいただければと……」
「口先だけでなく成果で示してもらいたいものだな。このままでは東部全域に警戒を出すハメになるぞ」
「将軍のお手を煩わすような事態にはさせません」
「――そう、願いたいな」

 
 休憩時間ではないため人通りは少ないが、ロイ・マスタングは元々行動が派手なため、ハクロ少将にお小言を言われている姿は少なからず人目を引いていたが、当のハクロ少将は構う事無くちくちくとつつくだけつつき、取り巻きを従えてイーストシティ郊外の視察へと向かった。

「…………めずらしくニューオプティンの支部から出て来たと思ったら、グチ言いに来ただけっすか、あのおっさん」
 ハボックの素直な感想を聞き、ロイは口端をゆがめる。人気の無いことを確かめてから口を開いた。
「私みたいな若造が大佐の地位にいることが気にくわないのさ。いつ自分の地位に取って代わられるかと思って恐々としているだけだ。放っておけ」
 生返事のハボックにロイは苛立ちをあらわにするが、これ以上廊下で話を続ける気にもなれないので、リザがオフィスのドアを開いてから口を開く。
「……しかし、傷の男の件を早急に片付けたいのは私も同じだ。将来への不安の芽は、さっさと摘んでしまうに限るからな」
 デスクにリザが広げた地図と書類は、傷の男らしき人物が現れたという報告がある地域を示し、二色刷りの赤く彩られた箇所は発見場所で、出没の多さはロイも理解していて、ハクロ少将の苦言はまったく面白くなかったが――――
「逆に中央でももてあましていた事件を、ここで片付ければ私の株も上がるというものだ。害を持って利となす。私の昇進に利用できるものは全て利用させてもらう」
 東方司令部で一生を終えるなど微塵も思っていない。己の野望が、信念がどこまで通用するのか。
「私が大総統の地位に就いて、軍事の全権を手にするまではね」
 潜伏場所にピックアップしたエリアと、生き残ったイシュヴァール人が隠れ潜むスラムが記された書類を広げたリザは、微笑を浮かべながら上司を諌めた。
「不穏当な発言は、慎んだ方がよろしいかと」

「ああ、精々気をつけるとしよう」



 今はまだひそやかなものでも、確かな。



 夕日が照らす屋上で座っていたら、人間のよく判らない話し声と匂いをすぐ下から感じてはいたが、つまみ食いをするとラストが帰って来たとき怒られてしまうため、グラトニーは我慢して、イシュヴァール人の臭いが無いかと今日も鼻を利かせた。しかし、雑多な匂いの中にも探している臭いは無く、悪戯に空腹を募らせるばかりだった。
 コンクリートにヒールの音が響き、グラトニーが振り向くと、
「どう? グラトニー」
「ラスト、おかえりー」
 大好きなラストがすぐ傍に立っていた。
「傷の男はあれから現れた?」
「ううん、この近くにはいない。あっちは?」
「鋼の坊やが、第一分館に隠されてた賢者の石の資料の存在に気付いちゃってね、先回りして処分してきたわ」
 気の無いグラトニーの返事はいつものことなので、ラストはグラトニーの隣に腰を下ろす。
「さすがにあれだけ蔵書があると、資料を探し出すのも容易じゃなくてね、面倒だから建物ごと焼いちゃった。中央に入っちゃえば坊やの見張りも必要無いだろうし、とりあえずこっちの様子を見に戻ってきたんだけど……そう、まだ片付いてないの――」
 言い終えないうちにグラトニーが立ち上がり、周囲の匂いをしきりに嗅ぎだしていた。
「グラトニー?」
「におうよ、におうよ。血の臭いをまとったイシュヴァール人が近くにいるよ」
 夕方、逢魔が時。ふたつの闇が色濃くなってゆき、ラストは薄笑いを浮かべて言う。
「グラトニー」
「うん。食べていい?」
「髪の毛一本残さずね」


 反駁する水音が絶えない地下水路を男は一人歩いていた。十日ほど前に年端もいかぬ国家錬金術師を仕留め損ねてから、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていたが、彼の目的は全ての国家錬金術師の抹殺にあるため、そう悠長に構えてもいられず、半日ごとに出口を変えては地上と地下水路を行き来して、今夜から行動を再開しようと決めていた。
 自らの誇りとする褐色の肌と赤き眼。絶対神イシュヴァラ。近代文明を嫌い、自然と共に生きてきた愛おしき一族は今は殆ど無く、蟻の巣に水をかけて喜ぶ子供のように国家錬金術師たちに殺された。少なくとも自分が知る限りでは、国家錬金術師たちは殺しを喜んで行う殺人鬼の群れだった。
 憎しみは無論深いが、同じぐらい哀しいとも思っていた。錬金術という世界を歪める悪魔のわざに手を染めたばかりに、正しき道を歩むことができない彼らは、哀れむべき存在だった。
 篭る湿気が生んだ結露か、上水道から染み出したのか、ひとしずくが上着にかかる。
(待っていろ…………一人残さず、神の元に送ってやる)
 そのとき、足元を走っていたネズミが立ち止まり、顔を上げると同時に背後に気配を捉えた。
 肩越しに振り返ると、闇の中に二つの光が近づいてきていた。それは下水道に腰まで浸かり、ぶくぶくと肥えた体毛の無い男だった。男は涎と歯を見せて笑い――――超人的な瞬発力で流水を弾きながら突進してきた。



 ――――そのわずか数分後、イーストシティの市街の一部が破壊されていると軍に連絡が入った。








「ティム・マルコー…………えーと……」
 女性司書が本館の目録に目を落として該当著者を探すこと数分。
「ティム・マルコーの賢者の石に関する研究資料……やっぱり目録に載ってませんね。本館も分館も新しく入ったものは必ずチェックして目録に記しますからね、ここに無いって事はそんな資料は存在しないか、あっても先日の火災で焼失したって事でしょう」
 目録のEとMとTの項目を眺めるがやはり、鎧の大男を引き連れた少年国家錬金術師の真摯な願いに副う項目は存在しなかった。
「――――って、もしもし?」
 応えが無いので顔をあげると、受付のカウンターの向こうで床に手を着いてエドは絶望を全身に背負っていて、アルもショックのあまりおぼつかない足元と声音で礼を言ってきた。
「どうも……お世話になりました……」
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ…………」
 あわせて立ち上がったエドの言葉も弱々しいもので、蔵書の整理をしながら一部始終を見ていた男性司書が声を上げた。
「あ! シェスカなら知ってるかも。――ほら、この前まで第一分館にいた――」
「ああ!」
 司書のやり取りに足を止めた兄弟に、女性司書は声を弾ませて言った。
「シェスカの住所なら調べればすぐわかるわ。会ってみる?」
「誰? 分館の蔵書に詳しい人?」
 エドの素朴な問いに女性司書は苦笑を浮かべて答えた。
「詳しいって言うか……あれは文字通り本の虫ね」







 決して派手ではないが、細やかな意匠を施した門扉、手入れの行き届いたシンメトリーの庭園は四季それぞれの花を美しく咲かせ、その先に邸宅――の知る上流貴族と比べても遜色無い――があり、玄関先では使用人が二十人ほど整列して二人を出迎えた。
 玄関先に横付けした車からまず、運転手が降りて後部座席のドアを開けると、アームストロングが降りて、続けてが降りた。
「お帰りなさいませ、アレックス様」
 執事は歩み寄り一礼し、短く答えたアームストロング――アレックスの隣で、ただ静かに待つを見て声をかけた。
「……こちらの方が、ご連絡いただいておりました方で?」
「うむ。という」
 アレックスに促されては歩み出て口を開いた。
「はじめまして。アレックス様よりご紹介いただきました、と申します。この度、アレックス・ルイ・アームストロング様のご好意により、お世話になるご当主へのご挨拶へ参りました。至らぬ点も多いと存じますゆえ、ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
 ワンピースを少しつまみ、執事と使用人たちに大仰にならない程度に会釈をすると、執事は満面の笑みで返してきた。
「こちらこそ、ご立派なお言葉を戴き恐縮です。私が当家に仕える執事にございます。お見知りおきを。――さ、主がお待ちかねです。こちらへどうぞ」
 ポーチを両手で前に持ち、いつものように大股で歩くわけにも行かず、優雅な足取りでが歩む。
(まあ、礼儀にうるさいクライアントに会いに行くって考えりゃ気が楽だわな)

 ――――心の声は誰にも聞こえるわけも無く、千畳敷の猫を被ったまま邸内に招き入れられた。


 アームストロング家の現当主であるフィリップ・ガルガントス・アームストロング。五十年の軍人生活を終えた今は細君とともに、末っ子のキャスリン・エル・アームストロングの成長を見守ることが最大の関心事ではあるが――――長男であるアレックスが突然、錬金術の失敗により記憶喪失になった錬金術師の女性を匿っていて、さらにアームストロング家の後ろ盾を願いたいという話は、父親としても、元軍人としても青天の霹靂だった。最寄の管理部に依頼したほうがよほどスマートだろうと提案したが、息子はその女性は実に聡明で可憐であり、軍が不法入国者などにしばしば不当な扱いをする事を挙げ連ね、自分が出会ったことは何かの縁であると考えられるので、ぜひ力を貸して欲しいと懇願されては、女ばかりの子供の中で唯一授かった息子に、父は強く出ることは出来なかった。

 電話を受けたときからフィリップは細君に相談――狼狽の胸の内を滔々と語るが、細君は落ち着き払って告げた。
「会うだけ会ってあげればいいではありませんか」
 紋切り型で言い放たれてはそれ以上続けることも出来ず、今日という日を迎えた――――

「ご主人様。アレックス様がお戻りになられました」
「うむ。通せ」
 三十畳の広さを持つ応接間を飾る一服の絵画は、一時は当家のパトロンだった画家の描いたものだ。その画家は死後に芸術性の高さを認められて更に名が売れているため、収集家、好事家が金に糸目をつけずに欲しがっているが、写真が無かった当時、家族のピクニックを楽しむ風景を描かれたもので、どの当主も、そしてフィリップも首を縦に振ることは無かった。
 いつもならば情感豊かな絵画が心を和ませてくれるが、今日ばかりはただの絵としか感じなれなかった。恭しく執事がドアを開けフィリップの前まで歩み寄ったアレックスは軍隊式に敬礼をして口を開く。
「父上。ただいま戻りました」
「うむ」
 大仰に頷いてから、フィリップは続けた。
「近頃騒がしい話を聞いているが、息災でやっておるかね」
「はっ。国家のため、父上の、アームストロング家の名に恥じぬよう日々邁進している所存であります」
 直立不動で答えるわが子の姿に、微笑が漏れる。しかし、懸念すべき事項が残っていた。
「して――――お前の願うご婦人はどちらに?」
「はい。こちらに」
 アレックスが執事に目配せをし、執事はを応接間へ通した。

 絹糸の滑らかさを持つ山吹の髪を上品に纏め上げ、無造作につけた紅い耳飾りがきめ細やかな白皙の肌を引き立てて、身に纏うドレスは上質の仕立てのプレタポルテでありながら、彼女のために作らせたように似合っていた。長く、濃い睫毛に縁取られた瞳は鮮やかな翠で、ふくよかな唇から詠うようにつむがれる言葉は淀み無く、フィリップに向けられた。
「お初にお目にかかります。わたくしがアレックス様よりご紹介いただきました、と申します」
 優雅に淑女の会釈を見せたに、フィリップはかすかな驚きを見せたが、すぐに威厳のある表情で返した。
「成程、あなたが。わたしが当主のフィリップ・ガルガントス・アームストロングだ」
 はフィリップとアレックスを交互に見やって言った。
「此の度はアレックス様のご温情を賜りまして、ご当主へのお目通りと相成りました。どこの馬の骨ともつかぬわたくしへのご好意、言葉に出来ないほど感謝しております。この場をお借りして、お礼を述べさせていただきます」
 深々と頭を下げたに、アレックスは言う。
「ああレディ、貴女の気持ちは私に充分伝わっております。どうか、顔を上げてください」
「ご当主ならびに一族の方々、そしてアレックス様にご迷惑をおかけしているとは存じますが、何卒お力添えをお願い申し上げる所存でございます」
 頭を上げることなく続けたの態度に、フィリップは相好を崩して言った。
「これはこれは。丁寧なご挨拶をいただき恐縮ですな。さあ、顔を上げてください。せっかくの花の顔を隠しては勿体無い」
「……恐れ入ります」
 答えては微笑み、フィリップは椅子を示していった。
「お掛けなさい。長旅でお疲れでしょう」
 着席を許されたことで、保証を約束するフィリップの対応に、は再び頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」









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