司令部の所属するオフィスに戻ったアレックスは、今回の護衛における報告書を書き上げ、内容に不備が無いか読み返していた。
 ティム・マルコーとの出会いはそもそも無かったことにすれば問題無いし、エルリック兄弟の護衛自体も順調に終了し、任務の引継ぎもできたが――――不法入国者であり、異界からの来訪者でもあるに関する記述だけは矛盾だらけの状況を取り繕う必要があった。錬金術師という触れ込みだけでは何の身分証明にもならないが、2百年近くアメストリスという国家の政財界とかかわってきた、アームストロング家の後ろ盾という先手を打っておけば、いかな軍部でも強引に事を運ぶことは出来ない。
 これが、何の力も無い者であればアレックスはここまで根回しをする必要は考えなかった。適当に世話をして管理局に判断を委ねてそれで終わっていただろう。だが魔術という新たなる技術は科学技術たる錬金術とは全く異なる体系でありながら、類似点が多く、錬金術師が魔術に転化できる可能性が否定できず――――軍部がいたずらにを拘束して調査を始めれば、いずれは魔術の存在を知ることになり、国家の、ひいては世界のパワーバランスが崩れかねない危険性があった。
 それに、出会いからしては凛々しく、見知らぬ世界に居ると理解しても自らを失わない芯の強さ、戦闘能力の高さ、女性らしさを微妙なバランスで保ち、この世界に順応しようと努力する姿は非常に好ましく映った。保身のためもあっただろうが、アレックスの行動を諌めもせず、清濁併せ呑む度量も持ち合わせていて。そんな彼女を無碍に扱う気は到底アレックスには無かった。
(全く、女にしておくのはもったいない――――)
 例えば――軍籍に身を置いたならば瞬く間に出世し、マース・ヒューズやロイ・マスタングと肩を並べているかもしれない。部下から崇拝されながらも先陣を切って行動を起こすの想像に、つい笑みが洩れてしまい、オフィスに入ってきた人物に声をかけられるまで気付くことができなかった。

「なぁににやついてんだよ大将」
 マース・ヒューズ中佐のからかいたっぷりの声にアレックスは顔を上げる。
「む、これは中佐殿。遅くまでお疲れ様であります」
「いやいや、もう終わりさ…………ところで大将、ひとついいかな?」
「何でありますか?」
 顔を寄せてヒューズはささやく。
「――――美女とデートしてただろ」
「…………お耳がお早いようで」
 否定しない態度にヒューズは嬉しそうに言を継ぐ。
「いやー、お前んちの贔屓の店のハッシュだっけ? 警邏中の奴が見かけてさぁ、スマートにエスコートしてたってもう持ちきりだぜ! ま、可愛さは俺のエリシアには負けるだろうがな!」
 如何なる時も目に入れても歓喜していそうな愛娘のアピールを忘れないヒューズに何も言えず、報告書を提出してからは多少はのことが話題になるかなーなんて、甘い考えだったと思い知らされたアレックスにヒューズは更に問いかけた。
「誰ダレだれ? 聞くところじゃお嬢様っぽいけど?」
「……良家の子女ではありません。我が父に後ろ盾を願うための訪問で、正装をさせただけであります」
「後ろ盾? ……アームストロング家の?」
 穏やかでない言葉にヒューズは眉をひそめ、アレックスは更に続けた。
「報告書にも記しましたが、リゼンブールに赴いた折、エドワード・エルリックの証言によると、錬成陣が突如として出現し、突然現れた錬金術師であります。おそらく術の失敗によるものでしょうが、出自にかかわる記憶を殆ど失っておりまして、氏名と術の行使をかろうじて覚えているだけです」
「…………マジで?」
「本来ならば管理局に身柄を引き渡すべきとは考えましたが、当時はエルリック兄弟の護衛がありましたので……」
「そのまま同行させたって事か、それにしてもやりすぎじゃねえ?」
「不法入国者や不審者の扱いは我輩の目には行き過ぎに映っております。身元が知れぬとはいえうら若き可憐な少女、いえ婦人を手荒な目にあわせるのは不憫に思いましてな、先手を打ったのであります」
「…………つまり、お前さんがそこまで入れ込むほどの女って事だな」
「どう取っていただいても構いません」
 素っ気無い返事にヒューズは天を仰いで大仰に言う。
「っか――――! そうかそうか春が来たか! よしがんばれ応援するぜ!」
「恐縮です」
「ただし逢わせてくれたらな?」
「それは…………」
「ロイの野郎に遭わせるのとどっちがいい?」
 世話好きと女好き。答えは一つ。
「……明日は家族に紹介を兼ねた昼食会を予定しております。その後でよろしければ」
「おっけーおっけー。明日は午後には軍法会議所に戻ってるからさ、終わったら連絡くれよ!」
「了解しました」
 報告書を封筒にしまい、アレックスが席を立ってドアを開けると――人だかりがあった。
「…………」
「いやー、みんなすげえ気にしててさぁ、じゃんけんで負けちまった俺が聞きに来る羽目になって」
「……」
 朴念仁やら堅物やら豪放やら、女っ気には縁の無いと見られていたアレックスの振って湧いた艶事は誰もが興味津々で。


 蜘蛛の子を散らすように逃げていく人々の先頭に大総統がいたよーな気がしたが見なかったことにした。








「うくくくく。からかい甲斐があるなぁ」
 上質のクレンジングで化粧を落とし、頭も身体も洗い終えたはのんびりとバスタブに張った湯船で手足を伸ばした。長時間の移動と正装による緊張が足の指からほぐれてゆく。
(たった数日でもあの兄弟は知れば知るほど好ましい……いや、面白い、かな)
 少年から青年へと変わりゆく時期の危うさは紛れも無い魅力だと思い、最悪、元の世界に戻れなかった場合は彼らの成長を見守るも一興だ。
 弟たちが大きくなったらエドやアルのようになるのかと思いに耽る。真っ直ぐな性根と純情さは相棒にはとうに失せたもので、とても新鮮に感じていた。初めは傭兵の身軽さで友好関係を築き上げたが、この世界でも簡単に人は死ぬし、エドは命を狙われている。出会いの妙に意図的ではと頭を掠めるが、そのときはその時に御大を叩いてどうにかするつもりだった。
 ――――自分に喧嘩を売ってきたことがトラウマになる程度には痛めつけよう。
 仮想敵への思いをめぐらせていると、エドの声がかすかに聞こえて微笑を浮かべる。
(そうなると……件の傷の男は邪魔だな)
 声に出さずに心話でワイズに呼びかけた。
<<この国でエドたちに害をなすような者の動きが無いか、監視してくれ>>
<<何だ、殺さないんだ>>
<<奴の顔も知らないのにそんなことはできないだろう>>
<<今、死にかけてるって言ったらどうする?>>
<<――なんだと?>>
<<一人居るよ。ちょっと変わったのと戦って傷ついて、地下水路に浮いてるけど>>
「――――っ」
 属性に於いて一にして全の存在である精霊が捉えた言葉は予想外で。とっさに湯船から上がりかけ、深呼吸を一つして座り直す。
<<……人の居るところまで、運んでくれ>>
<<何で助けるの?>>
<<死にかけてるって聞いちゃ放っておけんよ。私が戦って止めを刺すのとは、違う>>
<<エドやアルを狙ってるんじゃないの?>>
<<まだ、殺されていないし、殺人者として対峙するような時は――殺す>>
<<――――そういう反応は好きだけど、後悔しないでね>>
<<ああ。一つ言っておくが、殺すときは意志や外見を見定め、相手にもこちらの意志を示してから、だ。そうやってきた>>
<<…………疲れることをするんだね>>
<<屠り、食することで命をつなげているのとは違うが、生きるための戦いには理由が欲しいからな>>
<<――君と契約していた精霊は苦労してただろうね>>
<<強制はしない。ただ、お願いしているだけさ>>
<<しかも扱いも心得てる――――いま、地上に出る下水路に流したよ>>
<<ありがとうワイズ。そのまま監視しててくれ>>
 のぼせてきたため湯から上がり、備品のタオルで身体を拭く。
<<わかったよ>>
 バスタブの栓を抜き、魔術で湯垢と湿気を消し去る。生渇きの髪をタオルでまとめ、スキンケアを終えてはパジャマに着替えて浴室を出た。
 暝い意志は秘めたままで――――

 体の線がちょっとわかる薄手のパジャマを着て、湯上りで上気した頬に潤んだ瞳にかすかに石鹸のいいにおい。胸元のボタンがきわどいところまで外れているので覗く素肌に目が向いてしまう。一瞬でも目を奪われた事実を、ごまかしのためそっぽを向いて吐き捨てる。
「…………遅ぇよ」
「長風呂が好きでね。――ああ、さては……」
 にやつくにエドは怒鳴りつける。
「っだ――! うるせぇ――――!」
「まだ何も言ってないし」
「兄さん……」
「ああもう! フロだフロ!」
 とアルの波状攻撃でいたたまれなくなったエドは下着を引っつかみ、浴室に行ってしまった。乱暴にドアを閉める音のすぐ後に聞こえる激しい水音と金属音。しばらくするとパン、と錬成の音まで聞こえてきたため、こらえきれずは笑い出した。
「ぬふはははは、楽しいなぁ」
っていじめっ子だったんだね……」
「何だ、いじめて欲しいのか?」
「けけけ結構ですっ」
 後ずさるアルを尻目にソファに腰掛ける。
「冗談だよ。それよりも――――刻印を見せてくれないか?」
「え?」
「魂と鎧を中立ている刻印だよ。できれば守りの魔術を施しておきたい」
「そんな、魔術なんていいよ」
「…………次に傷の男に遭ったとき、破壊されない約束でも交わしているのか?」
 鋭い声の問いに、アルは身を硬くする。
「それは……そうだけど」
「じゃあ、エドが出てきたらしよう」
「え、兄さんが?」
「ああ、錬成した本人とのパスが必要になる」


 素直な反応のおかげで水道管を割ってしまい、錬成で取り繕ってはいるが、雑念のおかげでいびつにせり出したパイプに手布をかけてエドはため息をついた。女性に興味が無いわけではないが、の所作の無防備さは目のやり場に困ってしまう。なまじ見目が整っているだけに始末が悪い。おまけに、傭兵とか言う仕事で社会に出ているせいで大人然としている時と、年相応の表情とのアンバランスさがどうしようもないほど魅力的で。
(周りに居た男は絶対誤解するよな、あーいうの)
 おのれも誤解しかけたのだから多分そうだと結論付け、エドはトランクス一丁で浴室を出た。ロスたちとひと揉めしたソファが備え付けられた部屋へのドアノブに手をかけると、の話し声がして。
「とっとと寝ろよ……」
 ドアを開けながらうめくと、アルの言葉が飛んできた。
「なんか引っ掛けてきなよ、恥ずかしいから」
「俺は気にしねぇ」
 舌を出しそうな勢いで言い返すと、意外な言葉がかえってきた。
「ああ、そのほうがいい」
「はぁ?」
「色々都合がいい、ということだよ」
 微笑むにエドは心底あきれ果てた。
「――やっぱ着てくる」
 背を向けるエドには続けた。
「まあ待て。アルの刻印を護る術を施したい。協力してくれ」
「――――何故だ?」
 弟よりも真摯な感情を込めて兄は問いかける。
「傷の男の話はアレックスから聞いた。いかなる方法で破壊されたかはわからないが、『破壊』する事象そのものをとどめる術をかけておいたほうが今後のためにもなると思って」
「…………余計なお世話だ」
「私は傭兵だ。恩ある二人を護りたいという気持ちがある」
「いつお前を雇ったんだよ」
「受講料を戴くと決まった時で問題ない」
「じゃあおっさんを護れよ」
「彼のテリトリーは既に軍部にある。あのフィールドでは私の存在は迷惑になる」
「オレ達なら迷惑にならないってか?」
「違う。力になりたいだけだ」
「いらねぇよ」
「もう! そんな言い方ってないよ兄さん!」
 とうとうアルが口を挟んできたので、エドは弟を睨みつけた。
「……オレたちはオレたちのやり方があるんだ」
 突き放す言葉を、受け止めてからは口を開いた。
「――――なぜ、関わりを持つことを恐れる?」
「……」
「お前の世界は失ったものとアルフォンスだけで構成されているわけじゃない。すべてと関わっている」
「錬金術師なら誰でも理解してるぜ、そんなこと」
「だがそれを拒んでいるじゃないか」
「んなことねぇ」
「私という異物を受け入れられない。信じるにはまだ足りていないか?」
 内面を見透かされたときとはまた違う眼差しに、エドは視線を外して言った。
「そ、そういうことじゃねえよ」
「ならば、刻印を護る行為を拒む理由を教えて欲しい」
「――」
「……正直に言えば? これ以上女の子の世話になりたくないって」
「――――は?」
「……………………」
 頬を朱に染めて居心地が悪そうにしているエドを見、ついでアルを見ては理解した。
「なるほど、男の尊厳ゆえに、か」
 手を叩いて一人頷く。
「……ウィンリィといい、といい、なんでそうお節介なんだよ」
 エドのつぶやきに、は笑顔で応える。
「男は女に育てられるんだぞ?」

「なんか至言だねー」




 ベッドにアルを寝かせ、胸当てと腰のつがいを外して脚部をずらす。そして胸部の内側にエドが入り、続いても入る。微妙に体が触れあい、エドの顔が赤くなる。
「……さすがに狭いな」
「二人分のスペースは考えないだろフツー」
 真面目なの感想に恥ずかしさが薄らいで、エドはすぐ上の血印を見やった。
「で、どうするんだ?」
「契約者と対象者と術者で三方の陣を成し、『非破壊』の効果をつける。繋ぎ止める刻印をあくまでも壊されないようにするだけだから、変質や変化には影響が無い」
「つまり、元の身体に戻るときには邪魔にならないって事?」
 刻印が近いせいか、アルの声がよりクリアに聞こえた。
「ああ。後は――――人除けの結界を張ったから、ロスやブロッシュに現場を見られずにすむ」
 エドが下着だけで出てきたことが都合が良かったのは事実で、今もまだシャツを着ないで素肌に鎧が、パジャマ越しにの身体が触れていた。魔術の、アルのためとはいえ、こんな状態を彼女らに見られたら何をされるかわからない。
「じゃ、はじめよう。深呼吸をして、なるべく精神を落ち着かせて」
「お、おう」
「はーい」

『――――幽玄なる彼の者をとどめ、つなぐしるし』
 が言葉を紡ぐと同時に血印が淡いオレンジの光を帯び、エド、そしても光に包まれる。
『アルフォンス・エルリック――エドワード・エルリック――紅き契りを強めよ』
細かな光の粒子が発光した順に三角形をかたどり循環を始め、徐々に速度を早め、光を強めて。
『星幽の果て、エステリアの守人よ、そのちから――しるしに依りて護りたれ』
 眼裏に直接光を感じ、全てがホワイトアウトに包まれる。


「――――終わったよ。もう、眩しくはないだろう」
「…………ああ」
 どのくらい目を閉じていたのか、の声が、吐息が鼻にかかり、くすぐったいと思いながらエドは目を開けた。
「あれ?」
 目の錯覚か、の全身に燐光のようなものが張り付いていた。
「ん、術の名残。しばらくすれば消えるよ」
 エドの表情で勘付いたが微笑んで言う。接近した状態でその笑みは反則技で。しかもパジャマのボタンはやっぱりちゃんと止まってないので――――確かに存在する谷間が見えて、瞬く間に顔が赤くなるのをとめられなかった。
「どうした?」
(やっぱ自覚ねぇっ!!)
「なんでもねー……」
 嬉しくも情けない事態を脱するため、エドは鎧の外へ出たが、先に出たことを後悔した。胸元が大きく開いた分だけ上体を起こすとき、非常に危ういところまで見えて。自分より背が高いくせに華奢でありながら円やかなラインに目を奪われた。奪われてしまうと後は素直なもので。
「――――っあーもう!」

「ふう、さすがに苦しかった……って、寝るのか?」
 粒子をまだ残す体を眺めつぶやき、駆け足で隣のベッドにもぐりこんだエドに言う。
「寝る!」
「そのまえにアルを戻さないと」
「頼む!」
「いいけど、機械鎧の手入れをしてから寝てくれないか」
「明日!」
「手入れを怠ると後が怖いぞ」
「明日!!」
「…………何なんだ、一体」
 嘆息してアルに声をかける。
「と、いうことで、脚から先につけたほうがいいかな」
「うん…………」
「なんだ、どこか具合がおかしいのか?」
「そういうのじゃないけど……あ、いっこ上で留めて」
「ここか」
「あのね、言いにくいんだけど」
 脚部を繋ぎ、動作を確認する。
「うん?」
「パジャマのボタン、外れてる……」
「――――あ」
 一瞬固まったが、すぐにボタンを留めては言った。
「気にするな」
「気にするわぼけー!」
 顔だけ出してエドが突っ込む。滂沱のエドを見やって胸当てを留め直したアルは言った。
「うーん。青春だねぇ」
「何だその傍観者っぽい発言!?」
「だってボク魂だけだし」
「あああ、なんかむかつく」

 兄弟の会話を聞きながらソファにもたれ、魔術のために我慢していた煙草に火をつける。

「なにくつろいでんだ――!」

「おさまったようだな」
「うわむかつくっ」

 結局、機械鎧の手入れをさせられて――監視されながら――から、ようやく彼女を隣室に追いやって寝ることが出来た。










 翌朝、朝食を済ませてエドは読書、アルは鎧磨き、はあてがわれた別室でめいめいくつろいでいると、
「あぁ――――!!」
「どうしたの!?」
「大丈夫ですか!?」
 唐突に声を上げたの元にロスとブロッシュが駆け込み、
「っキャ――!」
「すいませんすいません!!」
 赤面で備品のティッシュボックスを抱えながらのブロッシュが追い出された。


 数分後、ブラウスと短い丈のタイトスカートという格好のは少尉を伴い、険しい顔でエドたちの部屋にやってきた。
「エド、ちょっといいかな」
「ああ?」
「昨日も話したが、今日の会食ではドレスを新調する必要がある」
「らしいな」
「昨日はアレックスがドレスを買ってくれたので受講料に手をつけていない」
「よかったな」
「問題はドレスが幾らするのかわからんのだ」
「――へ?」
「ロス――マリア少尉にも聞いたがやはりブルジョアの召し物の値段は不明だそうだ」
「…………」
 無言で少尉を見ると、彼女は困り顔でエドを見返してきた。
「手持ちで足りるか見当もつかん。すまんが金を貸してくれないだろうか?」
「貸すっていうか、オレも受講料払ってないから、いいぜ、銀行に行っておろして来るよ」
「助かる――って、銀行?」
「持ち合わせじゃ足りねえ」
 本を閉じて立ち上がると、赤いコートを手にして肩に掛けた。
「おっさんが六十万出したんだ。オレたちは二人分だから百二十万だな」
「……多くないか?」
 金額の多さに声の出ないロスとブロッシュをよそに、は少し眉をひそめただけだった。
「国家錬金術師にゃその程度はどうってことねえの」
「わかった。有難くいただく事にする」



 国家錬金術師に支給される研究費は国家錬金術師機関が管理と運用を行う。各都市に機関の支部があるため、通常の引き出しや振り替えはそこでも出来るが、営業時間の短さと支部の数が少ないことでたいていの国家錬金術師は都市銀行に振り分けている。賢者の石を探すための旅を続けるエドも研究費の半分近くを銀行に預けていて、護衛のため付いてきたロスと共に貯金を引き出した。
 帰りの車内、定期預金や定額貯金のパンフレットを山と渡されうんざり顔のエドがつぶやく。
「あいつらしつこい……」
 多種多様なプランを口々に説明する銀行員に飛び掛りそうになったエドを止め、やり過ごしたロスは苦笑する。
「銀行は資産運用で利益を得ますから、高額預金をしている人が何もしていないとつい……」
「ったく、放っておいてくれってんだ」
 札束がいくつか入っている紙袋には銀行のロゴ入りタオルや石鹸、万年筆などがおまけで入っていて、肝心の札束が見えないほど沢山あった。
「――――なあ、ホントに値段しらねえのか?」
「はい……私が私服で着ているものではドレスといっても数万がやっとですから。ブランドもそれほど敷居の高いものではなく……から聞いたところ、ハッシュで購入したというのですが、ハッシュはまさに上流階級のためのブランドなので」
「たかだか服一枚にとんでもない額がつけられているってか。ああやだやだ」
「ただ素晴らしく仕立てがいいので、ずっと着られることは確かですよ」
「体型がそのままならな」
「…………」



 なにやら難しい顔のロスをつれてエドが戻ってきた。お帰り、と居残り組が声をかける中、おまけの山をブロッシュに押し付け、に札束を一つ手渡す。
「ほれ」
「……ありがと」
 むきだしの札束を受け取って、帯札の封は解かずにポーチの中に入れようとしたとき、おまけを抱えたままのブロッシュの素直な感想が上がった。
「うわー、札束って初めて見た!」
「…………持ってみる?」
「えええ、いやそのえと…………うん」
 なにやらすごく恥じ入った表情と、嬉しそうな表情が入り混じるブロッシュ。受け取った札束をしげしげと眺め、ありきたりな感想を口にした。
「結構薄い……」
「一万センズ札が百枚だけだからなぁ」
「だけじゃなくって、百枚も、っすよ……でも有難味あんまりないっすね」
 返された札束をポーチの中にしまいこむ。
「ピン札はそんなもんだよ。使い慣れた札で五枚とか十枚の方が手にしたときの重みがある」
「そうっすね、どっかに落ちてないですかねぇ」
「労働の報酬でいいじゃないか」
「落し物は届けてあげなきゃ」
 とアルの真っ当な突っ込みにブロッシュは言葉に詰まり、エドとロスは小さく笑った。

 
 ボーイがアームストロング家の迎車が来たと知らせてきたため、エドとアルも連れ立ってロビーに出た。金髪緑眼のやたらとグラマラスな女性がソファにかけていて、たちが近づくとともにボーイが恭しく頭を下げ、女性は席を立って言った。
「はじめまして……さんですね?」
「はい。先日よりお世話になっております、と申します」
 とっさに猫を被りなおしてが答えると、女性は微笑んで言い返した。
「わたくしはキャスリン・エル・アームストロング。今日のランチにお迎えに参りました」
 背後で真っ白になっている四人を無視して軽く頭を下げては言う。
「お嬢様自らのお迎え、恐縮に存じますわ」
「まあ、そんなに畏まらないでください。さんのお話を伺ったときはどきどきいたしました。我が家に新しい家族が迎えられるって」
 笑みは常に薔薇とキラメキを背景に背負いながらたおやかで、すっかり魅了されたブロッシュは色を得た。
「恐れ多いことです。ご当主のご温情により身元のあかしだてをいただいてはおりますが……」
「あらあら、さっきも言いましたよ?」
「……失礼しました」
「さ、行きましょう。お昼までそれほど時間はありませんから」
 腰まで届く長い髪を翻し、キャスリンは言った。


 シエトロン一.五型の黒塗りの車に二人が乗り込み、重厚な唸りを上げて行ってしまうと、見惚れまくりのブロッシュを除き、白かった三人は色を取り戻して――――

「おっさんの……妹…………」
「ぜんぜん似てないね……」
「突然変異――――っマンセー!!」

 わめきたてる男どもをよそにロスはつぶやく。

「――キラキラは兄妹同じなのね」






 昨日乗った車とは明らかにグレードの違う代物で、内装は一流の材質だけが使われていた。座席も長時間の移動を考慮してやや硬質に仕立てられているが、手触りのよいスエードが張られているため乗り心地は最高だった。馬車ほどではないが高い天井には照明器具があり、上流階級専用の車に感心するに、きっちり足を揃えて座るキャスリンが話しかけた。
「まずはドレスを決めないといけませんね。丁度ハッシュに仕立てを頼んでおいたからわたしは平気ですけど……昨日着ていらしたドレスはどうなさったの?」
 の身なりを咎めるというより、素朴な疑問として聞かれたはうつむき加減で言い返す。
「二日続けて同じドレスでお伺いするのも失礼かと存じましたので、新調させて頂く事にしました。幸い鋼の錬金術師のエルリックさんが用立てを承諾していただけましたの」
「まあ、それはよかった。でも本当はお兄様が選んだというドレス、拝見したかったわ」
「……珍しいのですか?」
「ええ! 私やお母様のドレスを選ぶのにもお付き合いしてくれたことなんて殆どありませんもの」
 その割には手馴れていた気がするが、と胸中でつぶやいたは微笑んで応えた。
「――次にお邪魔するときには着てまいります」
「ええ、楽しみにしているわ」

 二日続けてハッシュを訪れた客に内心驚く支配人だったが、キャスリンの姿を見て邪推ながらも納得して変わらぬサーヴィスを提供する。
 そしての連荘のドレス選びは――――

「色が少し暗いです」
「子供っぽいです」
「ランチには派手すぎますねぇ」

 キャスリン監修、本人がモデルのファッションショーもとい試着で選ぶことになった。
 しかし――彼女の御眼鏡に適うプレタポルテはなかなか見つからず、五着目までは気楽に着替えていたも、二十着目を着たときにはさすがに悲鳴を上げた。
「キャスリン様……まだ試着は必要ですか?」
「そうですね……時間も押してますし……それと様をつけないでくださいね。わたしもつけませんから」
「分かりました、キャスリン」
 店内の在庫一掃ばりに引き出したドレスの中から五着を選び直す。

「この中から決めましょう」
「…………はい……」

 ――――結局、肩紐の細い膝下丈のワンピースに薄麻のブラウスをあわせた割とカジュアルな仕立てに決まった。無論ハッシュの品のため、飾り紐には細かな刺繍がついているし、シュネーの布地はふんだんに空気を取り入れて軽やかに翻る裁断がされ、幾何学模様をかたどる銀糸のアクセントが全体の甘すぎる感を中和していた。今日もしっかりと化粧を施してもらい、三つ編みにした髪を結い上げ、ネイルも丁寧に磨き上げてもらった。元の世界では基本的にクライアントとの対面は私服で問題なかったため、二日連続で正装をする事態は正直苦痛だった。先に仕上げてもらったのでラウンジで行儀良く座って待ち、ドレスの支払いも済ませるが、アレックスにもらった小切手を使い切る価格に……すまし顔の下は悪態の嵐だった。
(だめだ、こんなの毎日やってたら絶対切れる…………)
 雨の日は絶対履けないような純白の編み上げサンダルを見下ろし、こっそりと溜息をつくと、支度を終えたキャスリンが現れた。
 アムブロジア・カラーを主体としたホルター・ネックのオーガンジーで、純白のショールで肩を隠していたが、女性らしいフォルムを余すことなく表現した大胆で開放的なデザインだった。
「お待たせしました、さあ、行きましょうか」
「はい」

 支配人にエスコートされながら店を出た途端、四方から強い視線を浴びていることに気付いた。
<<――――ステア>>
 心話でステアに命じて瞬時に周囲の状況を探らせると、すぐさま意外な言葉が返ってきた。
<<軍人がやたらうろついているが……>>
 車に乗り込みながら軽く支配人に会釈しながら答える。
<<は? …………まあいい、不穏な動きがあったら教えてくれ>> 
<<承知した>>

「次はプラタイアに行きますから」
「……屋敷に戻られないのですか?」
「我が家のランチは各自でお料理を持ち寄っていただく慣わしがあるんです。自分の好きなメニューでいいのですが、家族やそのときのゲストのためにどれだけのお料理が出せるかというところに重きを置く場合が多いですけど」
「……なかなか素敵な趣向ですね」
「ええ、何かと忙しい兄様や姉様が集まることはそうありませんので、張り切ってます」
「では、プラタイアというのはレストランなのですね」
「ご存じない……あ、ごめんなさい」
「申し訳ありません」
「いえ、セントラルにお住まいではなかったんですね」
「……そのようです」
 プラタイアなんて店は宮使国にはありません。と言いたい気持ちをこらえては頭を下げ、キャスリンは慌てて言い直した。
「いいえ、わたしったらつい、のマナーがしっかりしてるから、違和感が無くて」
「小さいときから正式なマナーを身に着けてこられたキャスリンにそういってもらえると嬉しいですね」
「そんな、わたしなんてまだまだです」
「ご謙遜なさっておられる分、身についていらっしゃるかと」
「……なんだかってお姉さんみたい」
「先日成人いたしました」
「まあ、では一つお姉さんですね」
「そうだったのですか」
「そんなに子供みたいですか?」
「いえ、その逆です」
「わあ、なんだか嬉しいです」
 そういって微笑む姿は年相応の幼さが出ていて、思わずも微笑み返す。









 正々堂々敷居が高そうなレ・プラタイアで料理を回収してアームストロング家に行くと、今日のランチはガーデンで行うということなので邸内には入らず、庭園の一角に通された。薔薇が咲き乱れる半円の植え込みに囲まれるように大きな人工池の正面にしつらえたテーブルに案内された。純白のレースのトップウェアが敷いてある十人掛けのダイニングテーブルに、薔薇にちなんで、小さな薔薇をあしらったオールドウィーンナーローズシリーズの食器がセッティングされていた。
 食卓を彩る花器は籠をかたどったガラスで、南方から取り寄せたのか、カーラーとカスミソウが割りと控えめに飾られている。

「見事なセッティングですね……」
「そうですね……。なんだかずいぶん張り切った印象ですけど……」

 たしかにナプキンにしてもリングをつけて鳥を模してあり、ランチというよりディナー用のセッティングだった。

 そこへ、植え込みの向こうからアスコット・スーツを着込んだアレックスが現れた。
「おお、よくぞ参られた!」
 の姿を見るなり抱擁をしようと近づくが、
「まあ兄様、昨日もとご一緒でしたのにずいぶんな歓迎振りですね?」
 キャスリンのからかいに歩みを止めてアレックスは軽く唸る。
「しかもドレスまで贈ってさしあげるなんて。ドレスに関してはわたしや母様とのお付き合いは疎遠ですのに」
「むむ」
「ええ、わかってますわ。の境遇は父様から伺っていますからその理由も。――――でも、今度はわたしもご一緒しますから、そのつもりで」
「むむむ」
 言い方は実に柔らかいトーンだが、内容は相当に辛辣と揶揄満載で。笑みを隠し切れないままは二人に言う。
「どのご家庭でも兄上は妹君にお弱いのですね。アレックス様の困惑ぶりは初めて拝見いたしました」
「お恥ずかしいかぎりで」
「まあまあ、なんだかいつもの兄様では無いですね、緊張していらっしゃるの?」
「…………うむ。こういった状況は不慣れなものでな」
「きっと大丈夫です。母様ものことを快く思ってくださいます。だってわたしより作法を身につけていらっしゃるし、お姉さんだし、とてもお綺麗だし」
 力説してくれるキャスリンは実に可愛らしい表現でアレックスを説くが、その言葉はとアレックスにとってある危惧をもたらした。
「そのようにお褒めいただけるなど、身に余るお言葉ですわ」
「本当にそう思ったから口にしただけですから。――あ、母様と父様がいらしたわ」

(こりゃ、ただのランチじゃ無いな。…………まさかそういう風に取られるとは――――って、母親ならそう取るか。アレックスは気付いてるかな、わかってないと誤解が誤解を生むなぁ)

 横に広いフィリップが縦に長い細君を伴ってゆっくりと歩いてくる。二人は三人の前まで来るとまず最初にフィリップが声をかけた。
「遅くなってすまん、待ったかね?」
「いいえ、今しがた来たところですわ」
「そうか――――紹介しよう。妻のケリー・エマ・アームストロングだ」 
 アレックスと同じ背丈の、厳格な印象が強いケリーは眦すら笑みを浮かべずに言う。
「わたくしがアレックスの母です。今日は良くいらしてくださいました」
 大袈裟にならない程度にドレスの裾をつまみ、そのまま会釈する。
「はい。と申します。本日はお招きに預かりありがとうございます。ご当主であらせられるフィリップ・ガルガントス・アームストロング様より身元のあかしだてを戴いた上に、このようなご家族の会食の末席に加えさせていただき、心より感謝いたしております。なにぶん不調法ですので、失礼をしてしまうかとは存じますが、ご指導、ご鞭撻のほど、宜しくお願いいたします」
「…………こちらこそ。アレックスが気にかけるお嬢さんが、あなたのように礼儀正しい方で安心しました」
 やはり表情は変わらないが、かすかに口元は上がっていて。余分な装飾の無い母の言葉にも臆することなく、自然な声音で挨拶を口にしたに、キャスリンは感嘆の眼差しを向け、ケリーの態度に合格と感じたフィリップは言った。

「さて、料理がやってくるまで少し間がある。皆でこの庭園の薔薇を愛でて待とう」
「それも素敵ですけど、わたくしはの錬金術を見てみたいわ」
「――――」
「あ、私も見てみたいです。兄様が優れた術師だと仰ってましたし」
「…………」

(術は術でも魔術なんですけど)
 軽くアレックスを睨むが立て板に水の態度で返されてしまう。無言でいるということは言い過ぎたと反省しているか、それぐらいの芸当は見せておけという思いかどちらかだろう。やはり後者しか当て嵌まりそうも無いと判断したは胸中で毒吐いて、期待の視線を送る三人ににこやかに答えた。
「畏まりました。いまだ未熟ですが、ご覧になっていただけますか?」
「うむ。是非に」
「お好きなものを使って構いませんよ」
「楽しみです」
 軽く頷いては庭園と池を見回し、心話でワイズに語りかけた。
<<――――ってなことで水で女神像でもかたどるか>>
<<錬成反応はどう見せるの?>>
<<雷をそれっぽく見せるしかないな>>
<<この池、魚が結構棲んでるよ>>
<<…………幻視で>>
<<了ー解>>
「では、はじめます」
「錬成陣は不要なのかね?」
「ええ、大丈夫です――――」
 三人に背を向けて池のほとりに立ち、エドの錬成手順の真似をした。手のひらを合わせ芝生に軽く指先を落とす。空気の屈折率を変えて、実際には出現していないが錬成反応の帯電に似た青白い光の帯が水の上を走る幻視を見せる。池の中央で帯は円形になり、輪の中から飛沫をあげながら翼が生え、長衣を纏いて杖を振るう――――水で出来た女神像がせり上がってきた。
「おお――」
「まあ」
「うわあ…………」
「むう……」
 口々に声が洩れる中、右のつま先だけを水面に重ねたままで全長約八メートルの女神像が出現した。
<<よし、良いと言うまで固定>>
<<はいはい>>

「いかがでしょう?」
 ワイズに状態維持を命じたが振り返り言うと、途端に四人から拍手が沸きあがった。
「いや、お見事!」
「素晴らしいですわ」
「水のままで彫刻をお造りになるなんてすごいですわ!」
「美しい……!」
 落涙しつつも小さくサムズアップするアレックスに呆れてしまうが、優雅に会釈をして喝采に応えた。何時までも維持するわけにはいかないので、食事の間だけ女神像を出しておくことに了解を得てはほっとした。錬金術と違って魔術は魔力という特殊な体内エネルギーが原動力となり、の魔力のキャパシティは多くとも有限のため、力が十全でない現状で長期間の精霊使役は消費が激しいからだ。


 その後の食事で、優れた表現力に感服したフィリップはしきりに国家錬金術師の資格取得を勧め、費用も負担すると援助を申し入れたが、記憶の回復を優先したいというの言葉に残念そうに言った。
が良ければいつでもアレックスに言いなさい。優秀な人材はいつでも歓迎しているのでな」

 結局アレックスの姉二人――――シオンディーヌ・ラス・アームストロングとセレーネ・ディエ・アームストロングは食後のお茶のときにようやく現れ、二人ともキャスリンとさほど変わらぬ態度でに接し、これで、顔見世のランチは終了と相成った。













NEXT            dreamTOP           HOME